巴里とパテント・レザー

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巴里は、花の都ですよね。世界の誰にとっても、憧れの街であります。
巴里はまた、藝術の街ともいえるでしょう。音楽を学び、絵画を学ぶ街でもあります。

明治二十五年に、巴里に留学した人物に、岩村 透がいます。
岩村 透は、明治三年に東京に生まれた美術史家。フランス留学中には、黒田清輝と友だちになっています。帰国後は、当時の「東京美術学校」の先生になっています。
岩村 透には、『バルビゾン』の紀行文があるのですが。巴里のリオン駅から、汽車でムランの駅に着いています。ムランからは、乗合馬車だったという。
バルビゾンが、ミレーをはじめ、多くの画家が好んだ村であるのは、言うまでもないでしょう。
岩村 透は、バルビゾンでは大きな農家を改造した宿に泊まっています。夕食もまた、その宿で執っています。

「馬鈴薯のソップに、狐色のオムレツ、子牛の冷肉に、兎のソーテ、果物が梨に葡萄、馨い黒カヒーで幕と来ては、不平も何もあったものではない。」

そんなふうに書いています。
ここでの「ソーテ」は、ソテー。また「カヒー」は、コーヒーのことかと思われます。

岩村 透の『バルビゾン』には、こんな話も出てきます。バルビゾンの美しさが、どのようにして発見されたのか、について。
それは、1824年の夏のことだったという。
巴里の画家、フィリップ・ル・ジュと、クロード・アリニー、それにジャコブ・プチーの三人が、郊外の森に入った。新しい画材を探すために。自然の顔料ですね。
この画材を探しているうちに、迷子に。道が分からなくなってしまって。やがて日は暮れようとして。
森の中で、偶然、ひとりの牛飼いに出会って。「この近くに宿はないものだろうか?」
と、牛飼いは、言う。この近くにバルビゾンという村があって、そこならもしかすれば宿があるかも知れないぞ、と。
そこで牛飼いに案内してもらって、バルビゾンに。その頃、バルビゾンには、「フランソワ・ガンヌ」という若者の家があって、仕立屋。仕立屋だけれども旅の者に食事を出したりはする。
道に迷った画家三人は、このフランソワ・ガンヌの世話になったそうです。
翌朝、起きて観ると。まわりの素朴な景色が神々しく思えた。これがそもそもの画家とバルビゾンとの結びつきだったという。

巴里が出てくる短篇に、『幸福への意志』があります。1896年に、トオマス・マンが発表した小説。

「しばらくあちこち旅行をし、とくにパリで暮らし、およそ五カ月このかたミュンヒェンに腰を落ち着けた」

これは「パオロ・ホフマン」という友人について。
また、『幸福への意志』には、こんな描写も出てきます。

「彼は私の横で壁にもたれたまま、じっと自分のエナメルの靴を見つめていたが」

これはある舞踏会でのパオロの様子として。
「エナメル靴」は、パテント・レザーの靴ですね。
パテント・レザー patent leather
は、もともとアメリカ英語。1810年頃、アメリカのジョン・ボイドが特許を得た革なので、「パテント・レザー」。
どなたか極上のパテント・レザーの靴を作って頂けませんでしょうか。

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