サルトルとサンチュール

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サルトルは、フランスの作家ですよね。もちろん、ジャン=ポール・サルトルのことであります。「世界の知性」と言ってもよいでしょう。
ジャン=ポール・サルトルは、1905年6月11日に、巴里に生まれています。お父さんは、ジャン=バティスト。お母さんは、アンヌ=マリイ。
アンヌ=マリイは、アルベルト・シュバイツァーの従兄弟になります。
1911年、サルトルは目の病で。以降、晩年まで、斜視が後遺症となったそうです。
サルトルは幼い頃から、学力優等。1929年に、難問の「教授資格試験」に、一番の成績で受かっています。
この時、二番の成績だったのが、ボーヴォワール。ボーヴォワールはそれまでどんな試験でも一番しかなったことがなかったので。「私よりも頭良い人がいるとは」と、たいそう驚いたという。
これをきっかけに、サルトルとボーヴォワールとの交友がはじまるのですが。サルトルはボーヴォワールを、「カストール」の愛称で呼んだという。カストールはフランス語で、「ビーヴァー」のこと。ボーヴォワールの名前がビーヴァーにも通じるからだったのでしょう。
1940年代に、サルトルが巴里のカフェで原稿を書いていたのは、有名な話でしょう。たとえば、「ドゥ・マゴ」だとか、「フロール」だとか。
第二次世界大戦中の巴里は燃料不足で、カフェにはストーヴが焚かれていたからだと、伝えられています。
サルトルが世界中から注目されるようになったのは、戦後になってからのことです。
1945年には、アメリカへ。アメリカの各地で講演を行っています。このアメリカでのサルトルの講演は好評で、ますますサルトルの人気が高められたとのことです。

『リバティ・シップ』というけれど、それは貨物船、ひどいことに軍用貨物船なのだ。

サルトルはカストールへの手紙にそのように書いています。サルトルは「自由」の船名がお気に召したのか、アメリカへは船で行っているのです。
サルトルがニュウヨークに着いてすぐ、近くの人間がサルトル用のスーツを調達したという。当時のアメリカの知識人から見ても、サルトルは合格に達しない服装だったらしい。
1946年には、再び、アメリカへ。3月15日に、巴里に帰着。その直後に書いたのが、『実存主義とは何か』だったのです。

サルトルが1953年に発表した戯曲に、『狂気と天才』があります。1953年11月、巴里の『サラ・ベルナール座』での初演。
これは、実在の俳優、キーンをモデルにした演劇だったのです。
エドモンド・キーンは、1787年3月17日に、ロンドンで生まれています。四歳で初舞台というのですから、まさに「天才」というべきでしょう。
また、その後の人生もまた、天才にふさわしい数奇な運命を辿っているのですが。このサルトルの演劇『狂気と天才』の中に。

「なんだ?おれは革帯をくれといっているんだぞ。」

キーンに扮した役者の科白として。外套を着るのですが、その上から革ベルトを締めたいので。
この時、キーンに扮したのが、フランスの俳優、ピエール・ブラッスールだったのですが。
革帯。フランスなら「サンチュール」でしょうか。
どなたかコートの上に巻きたいサンチュールを作って頂けませんでしょうか。

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