谷 譲次は、日本の作家の名前ですよね。本名は、長谷川海太郎。
長谷川海太郎は明治三十三年一月十七日。佐渡に生まれています。明治三十三年はちょうど1900年のこと。今年は長谷川海太郎の、生誕125年になるわけですが。
長谷川海太郎のペンネイムが、谷 譲次。同じく、牧 逸馬も、林 不忘も、長谷川海太郎の筆名。
谷 譲次の名前では主にアメリカ物を。牧 逸馬の名義ではユウモア小説。そして林 不忘では、時代物。『丹下左膳』の生みの親であります。
つまり長谷川海太郎は同時に三つのペンネイムで、異なった分野の小説を書いたのです。いや、書きに書いたというべきでしょう。一時期はほとんど不眠不休だったのではないでしょうか。
長谷川海太郎の実際の執筆活動は、約十年間。この十年の間に書いた原稿量は、ちょっとした記録だと思われます。
1920年に、長谷川海太郎は、アメリカへ。二十歳の時です。横濱から、「香取丸」で。1920年8月4日に、シアトルに到着しています。
一応「オベリン大学」に入っていますが、11月には、退学。その後は「ビリー」の名前で、ホットドッグの販売などを。アメリカでの長谷川海太郎は、多少の苦労もしたのでしょう。
1924年の7月頃、日本に帰国しています。
長谷川海太郎が、原稿を書くようになったのは、1925年頃から。たとえば、『ヤング東郷』。この時の筆名が
「谷 譲次」だったのですね。
この谷 譲次に注目したのが、当時「中央公論」の社長だった、嶋中雄作。谷 譲次から、牧 逸馬、牧 逸馬からさらに、林 不忘へと。そのどれもが拍手喝采。
昭和九年には、鎌倉の小袋坂に豪邸を得ています。人呼んで「からかね御殿」。敷地はざっと千坪あったという。
自家用車も買って。この頃の文壇では、長谷川海太郎以外には、菊池 寛だけが自家用車を持っていたんだそうですね。
1925年頃に、牧 逸馬名義で発表した小説に、『都会冒険』があります。この中に。
「下町風の粋なこしらえだった。黒い薄外套が、細い身体の動くたびに、ゆらりゆらりとふるえていた。」
この背景は当時のニュウヨークになっています。つまりここでの「下町」とは、ダウンタウンふうということなのでしょう。
また、牧 逸馬は、「薄外套」と書いて、「ダスタア」のルビを添えています。
ダスターduster 。十九世紀の自動車乗りが服の上に羽織った埃除けに端を発しているコートなのです。
どなたか1920年代のダスターを復元して頂けませんでしょうか。