コーヒーとコサック・キャップ

コーヒーはもともとエチオピアの飲物だったそうですね。
読経の間に眠くならないための飲物だったとか。その意味では僧侶の間からはじまっているのでしょうか。
コーヒーが「有難い」飲物であることは間違いありません。
戦争中、コーヒーが手に入らない時代には、様々な代用コーヒーがあった。
これだけを考えてみても、コーヒーの貴重さが分かるというものです。
コーヒーを漢字で書くと、「珈琲」。「加」と「非」は、音を真似たもの。ではなぜ「王」偏が付くのか。
「まるで王様の飲物」という意味が込められているのかも知れませんが。
寝言はさておき、朝のはじめての一杯のコーヒーは文句なしに旨いものであります。この朝の一杯のコーヒーのために我が人生があるような気持さえしてくるほどに。
ところで日本人はいったいいつからコーヒーを味わうようになったのか。さあ。

「妾請ク自カラ一杯ノ香湯ヲ作り以テ郎君ニ呈セン。」

明治十一年に、丹羽純一郎が訳した『花柳春話』に、そのような文章が出てきます。
これは英国の作家、エドワード・ブルワー・リットンの原作。訳者の丹羽純一郎は、「香湯」と書いて、「こっひー」のルビを添えています。私の知る限り、コーヒーの出てくる小説としてはもっとも古い一例かと思われるのですが。
また、丹羽純一郎は、この文章の後に、「訳注」をつけてもいます。
「コーヒーは薬なので英国では読書家に薦められている。」
ざっとそんな内容の解説なのですが。
ここからの私の想像。明治十年頃、作家の丹羽純一郎には、コーヒーを飲む習慣がなかったのではないか。
いや、丹羽純一郎に限らず、明治十年代にはコーヒーはまだ一般的ではなかったのでしょう。
森 鷗外は、明治十七年に書いた『航西日記』の中に、「骨喜」と出てきます。これはドイツに向う客船の中でのこと。森
鷗外はこれでコーヒーと訓ませているのですが。そしてまた、鷗外はご自分でコーヒーを飲んでいるのです。明治十七年に。
これらを考え合わせますと。日本でのコーヒーは、洋行帰りの人からはじまったものではないでしょうか。そして、日本人が日本でコーヒーを日常的に親しむようになったのは、おそらく明治末期のことかと思われます。
森 鷗外の「骨喜」は、骨まで喜ぶほどの味わいという意味だったのでしょうか。

コーヒーが出てくるミステリに、『Gストリング殺人事件』があります。1941年に、アメリカの作家、ジプシー・ローズ・リーが発表した物語。

「上で熱いコーヒーや新聞が欲しいときは、下にいる道具係に注文を怒鳴り、箱に入れてもらってから、引上げればいいのだ。」

これは1930年代の、ニュウヨークの劇場、その楽屋での話として。
著者のジプシー・ローズ・リーは、藝名。本名はローズ・ルイーズ・ホヴィック。
1911年1月8日。アメリカ、ワシントンのシアトルに生まれています。
ローズ・ルイーズ・ホヴィックは、1920年代から舞台に立っていたそうです。ストリッパーとして。
ジプシー・ローズ・リーは服を脱ぐ間に、語る。この語りが絶妙というので、ファンが多かったらしい。
当時の客のm中には、画家のホアン・ミロや、マルク・シャガール、マックス・エルンストなどもいたんだとか。
1970年4月26日。五十九歳で人生の幕を下した時。ロサンゼルスの豪邸には、多くの名画が遺されていたらしい。
それは皆、買ったものではなくて、それぞれの画家から個人的に贈られたものだったという。
ジプシー・ローズ・リーの『Gストリング殺人事件』には、こんな描写も出てきます。

「女性はカラカルの毛皮で縁取られた、ロシアふうの黒いびろうどのドレスをまとっていた。背の高い毛皮のコサック帽をかぶり、手にはカラカルの大きなマフをつけている。」

これは新しく楽屋に入ってきた、ドリー・バクスターの服装として。
ここに出てくる「カラクラ」は、「カラカル・ラム」のことかと思われます。
それはともかく、「コサック帽」。これは「コサック・キャップ」cossak cap のことです。
コサック・キャップ。たいていは毛皮製。円筒形の、縁なし帽。
コサック族の民族帽だったので、その名前があります。
どなたかコサック・キャップを作って頂けませんでしょうか。