クリイムは、美味しいものですよね。クリイムは濃い牛乳があると作れます。
ボールの中にミルクを入れて、ただひたすらにかき混ぜる。手が疲れた頃、淡雪のようなクリイムができあがっています。
ただ、クリイムの難しいところは、クリイムだけをなめるのは、軽い罪悪感のあることでしょうか。クリイムをなにかの付録でもあるかのように添えものにしなくてはなりません。
たとえば、バームクーヘンの隣に置いてみたり。これなら、罪の意識は軽くなります。
シュウクリイム。シュウクリイムはよく考えられた菓子です。第一、中身のクリイムは見えないのですから。あのシュウクリイムの皮は、クリイムを手に持つためにあるのでしょう。シュウクリイムは、よほどクリイム好きのお方が考えた菓子に違いありません。もちろんここでのシュウクリイムは、いわゆる「生シュウ」のことを言っているのですが。私もまた、断然「生シュウ」が大好きです。
「いただきがこんがりと狐色に焦げた皮の上にふりかかっている粉砂糖は舌の上で、春の淡雪よりも早く溶けて、その甘味は捉えることも出来ないうちに消え、卵黄と、牛乳と、ヴァニラの香りが唇一杯にひろがるクリイムはその日の朝焼かれたものなのに皮になじんで、皮の内側はクリイムの牛乳を吸いこんでしっとりしている。」
森 茉莉は、随筆『シュウ・ア・ラ・クレェム』の中に、そのように書いています。
これは明治期に凮月堂が売り出した「シュウクリイム」についての想い出として。
森 茉莉は明治三十六年一月七日のお生まれ。
一方、明治二十二年五月二十九日に、岡山で誕生したのが、内田百間。
「私がはじめてシュークリームを食べたのは、明治四十年頃の事であろうと思う。その当時は岡山にいたので、東京や大阪では或いはもう少し早くから有ったかも知れない。」
内田百間は『シュークリーム』と題する随筆に、そのように書いてあります。
「楢村さん貴下彼方はお可嫌? お所好きなシュウクリイムがどつさり取つてございますの。」
明治三十三年に、徳田秋聲が発表した小説『雲のゆくへ』に、そのような会話が出てきます。楢村が友人の家を訪ねてその奥方にシュウクリイムを勧められる場面として。
この『雲のゆくへ』を読む限り、明治三十年頃の東京では、シュウクリイム、それほど珍しいものではなかったように思われるのですが。
明治四十年頃といえば、森 茉莉が五歳くらいでしょうか。もし、そうだとすると、東京と岡山の違いこそあれ、森
茉莉と内田百間は、ほぼ同じ頃にシュウクリイムを召しあがっていたのでしょう。
クリイムの出てくる小説に、『ダーハヴィル家のテス』があります。イギリスの作家、トオマス・ハーディが、1891年に発表した物語。
「クリームすくいも、乳搾りもいつものとおりに進行して、朝食を食べに一同は家へ入った。」
これは酪農一家なので、牛乳もクリイムも当然のことでしょう。また、『ダーハヴィル家のテス』には、こんな描写も出てきます。
「長兄のつけている白のネクタイ、詰め襟のチョッキ、つばのせまい帽子は、教区牧師補の制服である。」
ここから私が想像したのが、「クレリカル・カラア」clerical coller 。聖職者の着る襟のこと。立襟。後留の襟。
どなたか一般にも着られるクレリカル・カラアのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。