チャリネは、サーカスのことですよね。今はふつうサーカスと言いますが。
明治の頃には、「チャリネ」と称したんだそうですね。どうしてサーカスが、「チャリネ」だったのか。
明治十九年九月二日。イタリアから曲馬団がやって来て。その主催者の名前が、
「チャリーニ」だったので、チャリネと呼ばれるようになったんだそうです。
「………第二チヤリネ氏金ピカに装飾したる乗馬人八人の男女の指揮をし……………………。」
明治十九年『時事新報』九月三日付の記事には、そのように出ています。ここでの新聞記事は、「チヤリネ」と書いているのですが。いずれにしても、「チャリネ」が明治十九年にはじまっているのは、まず間違いないでしょうね。
「ちやりねの道化師様に装束ぎたる男、首筋にその数二百許色々の風船球を結びつけて……………………。」
明治二十五年に、尾崎紅葉が発表した『三人妻』の一節にも、そのように出ています。
尾崎紅葉は、「ちやりね」と書いているのですが、おそらく「チャリネ」を指しているでしょう。少なくとも明治二十五年には、日本語化されていたものと思われます。
騒ぎやみし 曲馬師の 樂屋なる 幕の青みを
ほのかにも 掲げつつ 水の面見る 女の瞳
北原白秋が、明治四十一年に詠んだ『邪宗門』にも、そのような一節があります。
北原白秋は、曲馬師と書いて、「チヤリネし」とルビを振っているのですが。
もし「曲馬団」ということなら、神田、秋葉原よりも、横濱が古いとの説があるようです。
たとえば。文久元年に、一川芳員が描いた『異国人横濱ニおゐて曲馬騎之図』にも、馬の鞍の上で逆立ちする西洋人の姿を観ることができます。
一川芳員は、横濱浮世絵師。一川芳員と書いて、「いっせん よしかず」と訓むんだそうですが。歌川国芳の弟子。横濱浮世絵師を代表するひとりと言って良いでしょう。
一川芳員は、同じく1861年に、『北亜墨利加合衆国』の絵も仕上げています。当時のミシンを踏む異国女性の傍に立つ男の姿。
異国男性は、黒のフロック に、白いチョッキを着ている様子。シングル前のチョッキで、金ボタンが十二ほど並んでいます。裾は水平にカットされています。
どなたか1861年頃のチョッキを仕立てて頂けませんでしょうか。