コローは、フランスの画家の名前ですよね。
ジャン・バティスト・カミーユ・コローは、1796年7 月16日に巴里に生まれています。つまりフランス革命の少し後の時代ということになるでしょうか。
巴里の場所は、バック通りとヴォルテール河岸との角地。コローのお母さんは当時この地で有名な帽子屋を開いていたという。また、この場所は「ルーヴル美術館」とは目と鼻の先。少年期のコローがルーヴル美術館に通ったのも当然のことでしょう。また、画家になることを夢見たのも。
でも、ご両親はコローが絵師になることに反対だったのです。むしろ、服飾業界に進むことを望まれて。若き日のコローは巴里の生地問屋に勤めたとのことです。
しかし、それでも絵が描きたくて。とうとう親たちが根負けしたのが、1823年頃のこと。さらに嬉しいことには、年金まで付けてくれて。一年に1500リーヴルもの年金を。コローは、数多い画家のなかで、一生お金に苦労することがなかった珍しい例であるのかも知れませんね。
1825年をはじめとして、コローは三度イタリアに長期旅行をしています。おそらくイタリアでは光の技法を学んだのでしょう。それから、デッサンも。
「デッサンは藝術家の内面の告白である。」
コローは、そんな言葉を遺しています。
1830年頃にコローが描いた名作に、『アレクシナ・ルドゥ嬢』があります。ブルーのドレスに赤いスカーフを纏った美女の姿。
この絵のモデルは、母のアトリエのお針子だった女性なのです。アレクシナも、コローもたがいに恋心を抱いていたようです。が、結局は二人は結ばれることなく終わっています。
「彼女は今でも存命していて、独身を通し、時々私に会いにくる。」
晩年のコローはそんなふう語ったという。ここでの「彼女」が、アレクシナ・ルドゥ嬢であることは言うまでもありません。もちろん、コローも生涯独身だったのですが。
コローが出てくる小説に、『日も月も』があります。昭和二十七年に、川端康成が発表した物語。
「クウルベの「雪景」、コロオの「ヴイル・ダブレエ」と、繪の前を移りながら………」
これは「松子」が展覧会を眺めている場面として。また、『日も月も』には、こんな描写も出てきます。
「紺野はコオルテンのズボンに、黑ビロードの上着をひつかけてゐた。」
紺野もまた画家という設定になっています。
どなたか細い黒のコールテンで上着を仕立てて頂けませんでしょうか。