バーゼルは、スイスの町ですよね。ライン河に沿った町。また、時計の町という印象もあります。
バーゼルに、昭和十四年に旅したお方に、山口青邨がいるのですが。山口青邨はその時の紀行文として、『バーゼルにて』を遺しています。
「このホテル(オテル・ド・トロワ・ロワ)と言って、今はその俤はないが、三人の王様が居られた城の跡に出来たホテルだということで、ここでの一流である。」
山口青邨はそんなふうに書いています。山口青邨は昭和十二年に、ドイツの「ベルリン工科大学」に留学。おそらくその休暇を利用しての旅だったのでしょう。
山口青邨は昭和十四年に帰国して、今の東大の教授になっています。山口青邨が学者の一方で、優れた俳人でもあったこと、言うまでもありません。山口青邨の代表句に。
外套の 裏は緋なりき 明治の雪
があるのは、ご存じの通り。
バーゼルが出てくる詩に、『バーゼルのための玉突きの新しいABC』があります。ヘルマン・ヘッセが、1901年に発表したポエムです。
歳は取っても玉突き遊びに支障なし
そんなふうにはじまって。
時計の針はもう午前一時
これで締めくくられる詩なのです。これはAの言葉からはじまって、Zの言葉で終る詩になっています。それで、『バーゼルのための玉突きの言葉ABC』の題になっているわけですね。
ヘルマン・ヘッセは1877年7月2日、午後6時30分に、ドイツの小さな町、カルプに生まれています。ただお父さんの仕事の都合で、1881年には一家でバーゼルに移っているのですね。
少年時代のヘッセがバーゼルで大きくなったのは、間違いないでしょう。ヘルマン・ヘッセの代表作は、『車輪の下』でしょうか。これは1905年、ヘッセが二十八歳の時に発表されています。
つまりヘッセは詩人であり、小説家でもあったわけです。でも、ヘッセにはもうひとつの顔がありました。それは、水彩画家。今も、ヘルマン・ヘッセの描いた水彩画が多く遺されています。
「離れの代りに、そのときフェラゲートのアトリエが建てられた。彼はここで七年間絵をかき、一日中の大部分をすごした。」
ヘルマン・ヘッセが1914年に発表した『湖畔のアト
』に、そのような一節が出てきます。
これはヨハン・フェラゲートという画家の物語になっているのですね。
1914年はヘッセ、三十七歳の時のこと。まだ絵ははじめていません。でも、この頃からすでに、絵に興味はあったのでしょう。
ヘルマン・ヘッセが絵をはじめたのは、1916年頃のこと。これは精神科医の薦めによるものだったと伝えられています。
1918年には、『水彩画つき手書き詩集』を発表。これは十二篇の詩に、十二枚の絵を添えたものだったのですが。
1930年、ヘッセが五十三歳の時、ちょっとした話が持ちあがって。それは友人のハンス・レボードマーがとチュウリッヒの自宅で歓談している時に。彼はモンタニョーラに地所を持っていて。
「その土地を好きに使ってくれないか?」
その結果、1931年に完成したのが、モンタニョーラ「カーサ・ロッサ」。カーサ・ロッサは、ヘッセの好みで一部赤く塗られていたので。
1962年、ヘルマン・ヘッセは、このカーサ・ロッサで永眠しているのですが。八十五歳でありました。八月九日のこと。八月八日の夜は、モオツァルト「ピアノ・ソナタ」を聴きながらベッドに入ったのですが。
ヘッセのなにより。愉しみは、モンタニョーラの庭で、絵を描くことにあったという。夏には必ずパナマをかぶって。
ヘッセのパナマのかぶり方は独特で、クラウンをすっかり上に上げたままかぶっています。
どなたかヘッセふうのかぶり方が似合うパナマを作って頂けませんでしょうか。