スコットランドの聖花
タータンはよく「タータン・チェック」と呼ばれる大胆な、多色使いの格子柄のことである。
時に「スコッチ・タータン」とも、「ハイランド・プレイド」ともいう。あるいは「クラン・タータン」とも。クラン clan はふつう、「氏族」と訳される。往時、スコットランドの人びとは結束の固い一群が徒党を組んで暮らしていたことによる。それぞれのタータンは氏族に属することを意味したと考えられている。
「タータンは英國縞模様の基調をなすもので、經・緯共に同じ縞を配列した格子縞の織物をいふ。」
三省堂編『婦人家庭百科辞典』 ( 昭和十二年刊 ) には、そのように出ている。戦前の日本ですでに「タータン」が知られていたわけである。
もっとも、中川芳太郎著『英文學風物誌』 (昭和八年刊 ) においても「タータン」についての記述が見られる。このあたりが比較的はやい例かと思われる。
タータン tartan は英語である。一説に古いフランス語の「テルテーヌ」 terutaine からきたものとも。「テルテーヌ」は、1247年ころから使われていうというから、古い。それは「リンジーウルジー」 linsey woolsey の意味であった。リンジーウルジーは古い布地で、コットンもしくはリネンと、ウールとの交織地のことであった。
このリンジーウルジーがフランダース( 今のベルギー) を経て、スコットランドに伝えられたのであろうと、考えられている。そして今のフランスではタータンを、「カロー・エコセ」の名で呼ぶ。「スコットランドの格子柄」というわけである。
一方、スコットランドではタータンのことを、「ブレカン」 brecan という。もちろんゲール語である。
スコットランドではタータンの歴史は謎に包まれている。タータンはキルトなどと並んで、国の象徴でもあるから、時に物語性によって彩られ、時に美化されることもあるだろう。
1471年に、スコットランド王、ジェイムズ三世は王と王妃のために、タータンの生地を買い求めたという。あるいは1538年に、やはりスコットランド王であったジェイムズ五世は、狩猟の時に、狩猟用のタータンを身に纏ったとのこと。このような「物語」のすべてを史実だと断定できるわけでもない。タータンは調べれば調べるほど、神秘ベールが厚くなる柄なのだ。
「すべての島々において、その島ごとに異なる風変わりなプラッドが織られている。」
マーティン・マーティン著『スコットランド西方諸島の解説』 ( 1703年刊 ) には、そのように出ている。マーティン・マーティンはスコットランドの旅行家であり、作家でもあった人物。ただし実際の執筆は、1695年ころであったらしい。
もし「風変わりなプラッド」をタータンだと理解するなら、1695年ころのスコットランドに、タータンがあったということになる。
『スコットランド西方諸島の解説』には、「プラッド」 plads と書かれている。おそらくこれは「プレイド」 plaid のことであろう。正しくは、「プラッド」と発音する。
今日「プレイド」はふつう「格子柄」の意味になる。が、もともとはスコットランドでの「肩掛け」。タータンを身に巻きつけ、最後に左肩の前に拡げて、留めた。その左肩の、前の部分を、「プラッド」と言った。が、そもそものゲール語では、「毛布」の意味。夜、寝る時には毛布代わりでもあったからだ。
スコットランドでのタータンにはいくつかの種類があった。たとえば、「ドレス・タータン」。これは盛装用の色鮮やかなタータン。「ハンティング・タータン」は、狩猟用で、グリーンやブルーを強調したもの。「モーニング・タータン」は、葬儀用の柄。これはブラック&ホワイトで構成されたタータンのこと。一例を挙げるなら、グレン・チェックはもともとモーニング・タータンから生まれたものである。
1746年4月16日をもって、タータンは禁止される。これは有名なカロドンの戦いにスコットランドが敗れた日である。スコットランド北部、インヴァーネスにも近い、カロドン・ムーアでイングランド軍と闘って、大敗。これによって、以後タータンの着用は禁じられたのである。
そして再び公けにタータンが着ることができるようになったのは、1822年。ジョージ四世がスコットランドを行幸した時。ジョージ四世自身、タータンの、スコットランド衣裳を身に纏ったのだから。これを「演出」したひとりが、サー・ウオルター・スコットであったのだ。
こうしてタータンは蘇り、前よりもさらにスコットランド人によって熱愛されるになったのだ。
「彼らがフェザー・ダンスを踊ると、タータンは美しく浮遊し、それは好戦的とも想える光景なのだ。」
サー・ウオルター・スコット著『湖上の麗人』の一説である。
タータン、このスコットランド特有の柄を、今一度、見直したいものである。