金平糖はきれいな菓子ですよね。いろんな色があって、とがっていて。見ているだけで、うれしくなってきます。
金平糖が今、どれくらい頻繁に好まれているのか、知りませんが。懐かしい菓子であることに間違いないでしょうね。
金平糖は、1569年の4月に、日本に伝えられたんだとか。永禄十二年に、宣教師のルイス・フロスが、織田信長に拝謁。京都、二条城において。この時、ルイス・フロスは信長に多くの献上品を奉った。天鵞絨の帽子、鏡、孔雀の尾…………。その中のひとつに、金平糖が。金平糖は透明のギヤマンに入っていたという。
ポルトガル語の「コンフェイト」 confeito に宛字をして、金平糖になったんだそうですね。ただ、日本では長い間、金平糖の作り方が分からなった。井原西鶴の『日本永代蔵』によると。ひそかに長崎の異人のところに女をつかわせて、その秘法を探り出したという。
今はどうですか、昔は胡麻に一粒を芯として、金平糖を仕上げたんだそうです。 金平糖がお好きだったのが、團伊玖磨。團伊玖磨著『パイプのけむり』によると。
「書き物をしている時に無くてならない物は、金平糖と氷菓子と煙草とお茶である。」
そんな風に書いています。また、こんなことも。
「金平糖には芯がある。芯の無いのは贋物であるから買っては不可無い。」
うーん。これは團伊玖磨式ユウモアでしょうね。その金平糖に果たして芯があるかないか、食べてみて、最後にならないとわからではありませんか。團伊玖磨は金平糖を食べながら、あのとげとげの数がいくつあるか、数えてみたそうです。だいたい二十数個のとげとげがあるんだとか。
名著『パイプのけむり』には、『靴』と題する随筆があります。戦争前、團伊玖磨がまだ音大の生徒だった時分から、晩年に至るまで、どんな靴を履いてきたかの、記録にもなっています。で、「現在」はどうなのか。
「香港のキンバリー・ロードの靴屋で、僕としては生まれて初めて、ちゃんと註文して、假縫いもして作らせた黒い鰐皮の靴である。」
なるほど。クロコダイルのシューズ。憧れの靴ですよね。斑の目がいくつあるか、数えてみましょうか。