皿とサージ

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皿はふつう料理をのせるものよね。いや、料理と限ったことではありませんが。
紅茶を飲む時、珈琲を飲む時にもやはり、それ専用の皿を添えることが多いものです。あの紅茶用の皿は昔、一度皿に移してから飲んだ習慣の名残りなんだとか。
紅茶が運ばれてくる。碗からすぐに飲んだのでは、熱い。で、まず皿に移してから、飲んだ。要するのこれは上流気取りでもったのでしょうね。古い時代貴族には猫舌が多かったのかも知れませんが。
たとえば、ステーキを食べる時。皿があるかないかで、大違いとなります。今の時代にはやっぱり皿があったほうが、食べやすいものです。古代には、焼きあがった肉を、めいめいの持ってる小刀で切って、そのまま口に運んだのでしょう。
皿の上に、皮つきのベイクド・ポテトが載って出てくることもあります。あつあつで、塩と胡椒で、頂く。美味いものです。
自宅で、客を呼んでの正餐に、ベイクド・ポテトが出た。前菜として。と、自宅の主は、ベイクド・ポテトを手で摑んで、壁に投げつけ、命中。その後は何事もなかったかのように、食事を続けたという。
この話は、モオムの書いた『サミング・アップ』に出ています。サマセット・モオムの祖父で、英国法曹界の重鎮だった人物の話として。
『サミング・アップ』は以前には、『要約すれば』の題名で翻訳されたこともあります。『サミング・アップ」は、小説でも随筆でもなく、「人生の書」。モオムが六十四歳になった時、いわば「遺書」として書いた本。無人島に持って行く一冊の本に、『サミング・アップ』をあげる人も少なくはないでしょうね。

「無人島で一カ月過ごすこととなったら、総理大臣よりも獣医と一緒のほうがずっといいと私は思う。」

『サミング・アップ』には、そんな言葉も出てきます。これは有名人よりもむしろ無名人のほうが興味深い、という説の中での一行なのですが。
『サミング・アップ』よりも前の、1944に刊行されたのが、『かみそりの刃」。ただし物語の背景は、主に1920年代になっているのですが。この中に。

「紺のサージ服だったが、痩せた身体に実にぴったり合っているし、白のワイシャツにソフト・カラー、そしてこれも水色の絹ネクタイに茶色の靴というわけだった。」

これはラリーという人物の着こなし。サージは、綾織の、しっかりとした生地。以前はよくスーツ地とされたもの。
日本語の「セル」とも関係があって、サージを「セルジ」と訓んで、「セル地」と解し。それならわざわざ「地」を添えることもなかろうと、「セル」になったものです。

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