清張と背広

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清張で、作家でといえば、松本清張でしょうね。松本清張は、明治四十二年十二月二十一日の生まれ。
清張と書いて、「きよはる」と訓むのが、本名。「せいちょう」と訓むのが、筆名。これは藤田嗣治と少し似ているのかも知れません。嗣治を「つぐはる」と訓むのが、本名。「つぐじ」と訓むのが、筆名なのですから。
松本清張の第一作は、『西郷札』。これは実際にあった軍票を小説に仕上げたもの。西郷札もまた、「私幣」。いつの時代にも、どこの國にも、戦時にはたいてい「軍票」あったものです。一般の紙幣の代りとして払うための、私の札。

「昭和二十五年ごろだったか、『週刊朝日』で「百万人の小説」という名で、一般からの懸賞募集があった。」

松本清張は、『半生の記』に、そのように書いています。その頃、松本清張は、朝日新聞西部本部の広告部員だったのですが。
それで書いたのが、『西郷札』。今、読んでなお傑作であります。松本清張の『西郷札』は三位に。これは朝日新聞社内から一位を出すわけにはいかない、との配慮が働いたためでしょう。
松本清張が『西郷札』の次に書いたのが、『或る「小倉日記」伝』。森 鷗外の小倉時代の空白を描いた名作。これは松本清張が小倉にいたからこそ書けた物語であるのかも知れませんが。
松本清張はよく推理小説家とされることが多い。たしかにのその通りでもあるでしょう。が、松本清張の本体は、稀に見るストーリーテラーだったと思うのです。
しかしその一方で、「謎」を追う作家でもありました。ひとつだけ例を挙げますと、『日本の黒い霧』。松本清張の鋭い筆は、戦後間もなくの未解決事件にも、分入っています。
たとえば、「下山事件」にも。「下山事件」とは、当時、国鉄総裁だった、下山定則が行方不明になった事件。結局は翌日に、哀しい姿で発見されるのですが。昭和二十四年七月五日のこと。今に至るも未解決のままになっています。
「下山事件」がいかに謎めいているかは、現在までに夥しい数の研究書が出ていることからも窺えるでしょう。
今に遺された下山総裁の、何枚かの写真を見ると、背広の襟に皺が出ているのです。カラーにもラペルにも。つまり上襟にも下襟にも。下山総裁はダブル前の背広がお好みだったようで、剣襟になっています。
背広における襟は「顔」でもあって、ここは必ず皺にならないように仕立てるものです。それが下山総裁の背広に限って、皺が。これもまた、戦後史における大きな謎のひとつでありましょう。

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