ボオとボヘミアン・タイ

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

ボオは、顔立ち佳き男のことですよね。b e a u。ハンサム、二枚目、美男子。私が逆立ちしてもお近づきにはなれない存在であります。
日本の、近世の、戯曲家でと言いますと。小山内薫ではないでしょうか。第一の美男子であります。なんといっても、鼻筋が通っています。羨ましい限りです。
もっとも小山内薫は役者でもありましたから、男前であるのも、当然でしょうが。
小山内薫の随筆に、『芝、麻布』があります。これは昭和二年『東京日日新聞』十月二十五日号から連載された文章。この中に、「龍土軒』の話が出てきます。

「麻布でもう一つ想い出すのは、龍土軒のことである。そこは麻布一連隊の前にある古風な小さい西洋料理店であるに過ぎないが、ここで私の先輩達が、むかし龍土会というものを開いていたのである。」

この「龍土軒」は、当時の麻布界隈ではもっとも古いフランス料理店だったと思われます。と、同時に凝りに凝る店で。ことに「龍土会」のある時には、凝りすぎるほどだったという。
ある時の「龍土会」に、「紅葉人白骨」と名づけられたひと皿が。
明治三十六年、尾崎紅葉が世を去ったばかりなので、皆びっくり。それは骨付きの鹿肉料理であったそうですが。
小山内薫と親交のあったのが、北村喜八。やはり明治期に活躍した劇作家であります。北村喜八は、『小山内薫』と題する随筆の中に、こんなふうに書いています。

「當時の先生は、黑いビロードの上着に派手なボヘミアン・ネクタイしめ、マドロス・パイプをふかし、ひどくダンディな様子をしていた。」

これは大正十年頃、小山内薫が慶應義塾大学の先生だった頃の話。

「或日、永井荷風君から電話がかかって来た。」

先の『芝、麻布』にそのように出ています。その永井荷風からの電話は。森 鷗外先生からの伝言で、「慶應の先生になるように」とのことで、ただちに引きうけたと、書いています。
さて、ここからは勝手な想像ですが。小山内薫のボヘミアン・タイは、永井荷風からの影響だってのではないでしょうか。
私もボヘミアン・タイを結ぶことはできます。でも、ボオにはちょっと無理でありますが。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone