ところが、ボオドレエルは、フランスの、象徴派詩人ですよね。
シャルル・ボオドレエルは、1821年4月9日、巴里に生まれています。
ボオドレエルとおしゃれも関係がないわけでもなくて。英國に生まれたダンディズムがフランスに伝えられた時、もっとも関心を強く抱いた詩人こそ、ボオドレエルだったのです。
それはボオドレエル著の『赤裸の心』などに、詳しく書かれています。
「ダンディを目指す者は、鏡の前に生き、鏡の前に眠らなければならない。」
そんな多くの箴言を遺しています。
ボオドレエルの代表作は、『悪の華』でしょうか。『悪の華』は、1857年6月25日に発行されています。ところが、発禁に。お上から「待った!」がかかったのです。
当時の時代の雰囲気のなかで、公序良俗に反するものと考えられたから。
その時、ボオドレエルが頼りにしたのが、サバティエ夫人。サバティエ夫人は、その時代の権力者と関係があると思われていたので。
「文學の影に女あり」。そんなふうに言えば良いのでしょうか。
ボオドレエルの詩は、辰野 隆はじめ、多くのフランス文學者の手によって、日本語に訳されているのは、ご存じの通りです。
文豪 森 鷗外が世を去ったのが、1922年7月9日。六十歳でありました。
この時、森 茉莉はフランス文學者、山田珠樹に伴って、巴里在住中。
森 茉莉の本心としては、帰国したい。この時、山田珠樹の親友、辰野 隆が丁寧に諭したという。
「今、帰国はせっかくの山田珠樹の勉強が台無しになる……………………。」と。
森 茉莉は、山田珠樹とはじめて会った頃を振り返って、次のように、書いています。
大正七年、十月ころの話として。
「紺の青年は十月末になるや、或る日ホオムスパンの青年に変つた。 ( これはホオムスパンです。父が造つてくれました) と青年は誇らしげに言つたが……………………。」
森 茉莉の随筆集『記憶の繪』には、そのように出ています。
大正七年このホームスパンが「誇らしい」ものであったことが、窺えるでしょう。
森 茉莉は、「ホオムスパン」と書いているのですが。
ホームスパンは、トゥイードと似て非なるものです。
英語としての「ホームスパン」は、1589年頃から用いられているとのこと。
「トゥイード」が偶然のことから英語になったのは、十九世紀はじめのことであります。
ホームスパンはその名前の通り、スコットランドの「自家用」だったのです。つまり素朴を愛でるのが、本来のホームスパンでありましょう。
どなたか昔ながらの、ホームスパンを織って頂けませんでしょうか。