ブーシェとブロケード

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ブーシェは、人の名前ですよね。B o uch er と書いて、「ブーシェ」と訓むんだそうですね。
たとえば、フランソワ・ブーシェでしょうか。フランソワ・ブーシェは、フランス、ロコロ時代の、絵師であります。ロコロの代表的な画家といっても過言ではないでしょう。
フランソワ・ブーシェは、1703年9月29日。巴里に生まれています。世を去ったのは、1770年5月30日。やはり巴里で。六十七年の生涯だったことになります。
フランソワ・ブーシェのお父さんは、ニコラ・ブーシェ。ニコラもまた画家で、刺繍家でもあったらしい。
フランソワは最初、お父さんのニコラから絵の手ほどきを受けたと、伝えられています。
ちょうど二十歳の時の、1723年、「ローマ賞」を受けてもいるようです。
そんなこともあって、1727年頃からイタリアへ留学しています。イタリアでは各地を旅したらしい。でも、詳しいことはよく分ってはいません。
フランソワ・ブーシェがフランスに帰国するのは、1731年のこと。この頃から、「美術アカデミー会員」になっています。
とにかく、「絵筆を持って生まれた男」といわれたほどの人物であったようですね。
中でもブーシェの絵を好んだのが、ポンパドール夫人。ルイ十五世の愛妾であります。
ポンパドール夫人はブーシェに絵を描かせただけでなく、ブーシェから絵も教わっているようです。
ブーシェの代表作のひとつに、『すべての人を照らす光』もまた、ポンパドール夫人の依頼により完成されたもの。これは、ポンパドール夫人の私的な礼拝堂に飾られた宗教画。現在では、「リヨン美術館」所蔵となっています。
フランソワ・ブーシェは絵画のみならず、タペストリーの管理官にも選ばれています。
「国立ゴブラン」とも深い関係にあったのです。
このフランソワ・ブーシェとつながりがあるのかどうか、ブーシェ。

「仕立屋ブウシ罷出御上着壹ッ御注文相成……………………。」

澁澤榮一著『巴里御在館日記』の、三月八日、晴、火曜日のところに、そのように出ています。
巴里留学中の、徳川昭武様が、上着を仕立てられたとの記述。その仕立屋が、「ブウシ」であった、と。 勝手な想像ですが、ブーシェではなかったでしょうか。

「………黒羽二重の小袖羽織と、純子の義経袴一着と……………………。」

澁澤榮一著『雨夜譚』には、そのように書いています。
慶應二年。徳川昭武様のヨオロッパ留学に従うことになった、澁澤榮一の着物はそんな様子であった、と。
澁澤榮一は、「純子」と書いていますが、これは「緞子」のことでしょう。英語なら、
「ブロケード」br oc ad e。絹地に金糸銀糸で文様を織り出した生地であります。
どなたかブロケードのジレ を仕立てて頂けませんでしょうか。

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