旅日記とタンクトップ

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旅日記は、旅行日誌のことですよね。少しエラソーに申しますと、「紀行記録」でしょうか。
ふだん日記をつける習慣のない人でも、旅に出ると日記を書いてみたくなる。そんなこともあるようですね。
日本の、貴重な旅日記のひとつに、『曽良日記』があります。
芭蕉の『奥の細道』はあまりに有名ですが。この芭蕉に伴ってのが、曽良。そして曽良が綴った記録が、『曽良日記』なのです。元禄二年のことであります。
曽良が旅日記を書いていたことは、はやくから識られていました。が、その存在は長く未発見だったのです。昭和十八年になって、はじめてその存在が明らかになったという。つまり、三百年ほど眠っていたわけですね。
『曽良日記』の、五月十二日を開いてみますと。これは陰暦ですから、今の6月28日のことになるのですが。

「………一ノ関黄昏二着。合羽モトヲル也。宿ス。」

この日の朝の天気は、曇。「戸今」を出て、三里ほど歩くと、強い雨が。そこで、馬に乗って、一ノ関に。
「合羽モトヲル也」。芭蕉と曽良は着物の上に、合羽。でも、それが透るくらいの雨だったのでしょう。
そして次の日。中尊寺の「光堂」を。でも、光堂は何度も建て替えられていて。芭蕉がはたしていつの時代の「光堂」であったか、研究者の間でも結論が出ていません。

五月雨の 降のこしてや 光堂

芭蕉は、この十三日に、光堂を拝観しています。が、この句に決定されるまでにも、いくつかの呻吟があったようですが。

もう少し身近かな旅日記としては、『旅は道づれ アロハ・ハワイ』があります。
高峰秀子・松山善三の共著。著者たちが『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を書いたのは、1975年のこと。時代背景はおよそ1960年代が中心になっています。高峰秀子はハワイがお好きだったようで。仕事でも余暇でも、何度もハワイに旅を。もっとも当時はホノルルの別荘をもお持ちでしたから、ハワイに「住んで」もいるわけですね。この中に。

「………カシミヤ百パーセントの軽くて暖かいセーターならきっと喜ぶに違いない。」

高峰秀子は、そんなふうに書いています。ハワイの百貨店「リバティ」で。ご主人の、
松山善三のために。
高峰秀子が松山善三に渡すと、喜んで。それは英国の「イエガー」製の、白いVネックのスェーターだったとも、書いてあります。
一方、松山善三は、こんなふうにも書いています。

「さぁ、朝メシだ。ショート・パンツにタンク・トップ・スタイルで食堂へゆく。」

これはもちろん別荘での「食堂」なのですが。松山善三はハワイでの朝食には、タンク・トップのこともあったのでしょう。
タンク・トップ t ank t o p は、1968年頃から一般に用いられるようになった言葉なんだそうです。
タンク・スーツの上半分だから、「タンク・トップ」。
「タンク・スーツ」は1930年代以前の海水着。当時はワイズミューラーだって誰だって皆、タンク・スーツで泳いだものであります。
どなたかシルク・ジャージーのタンク・トップを作って頂けませんでしょうか。

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