ジイドとジェラバ

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ジイドは、フランスの小説家ですよね。アンドレ・ジイドのことであります。
アンドレ・ジイドは、1869年11月22日、巴里に生まれています。
André. G id e と書いて、「アンドレ・ジイド」と訓みます。
でも、今辞書を開いてみますと、「ジッド」と出ているのです。「ジッド」なのか、
「ジイド」なのか。あるいはまた、「ジード」の表記もあるみたいですが。
戦前には、「ジイド」と言ったらしい。でも、戦後はだんだんと、「ジッド」の表現が多くなったんだそうです。私は古い人間なのか今でも「ジイド」のほうに馴染みがあります。
アンドレ・ジイドの影響を受けた日本の作家に、横光利一が。横光利一はジイドに学んで小説を書いたと、考えられています。
ジイドを熟読した作家に、遠藤周作がいます。

「私が今日、ジイドに興味ありとすれば『贋金つくり』及びその日記の作者としてである。」

遠藤周作は、昭和四十一年に書いた『ジイドと私』の随筆の中に、そのように書いています。
遠藤周作は、ご覧のように「ジイド」と書いているのですが。そしてまた、こうも書くのです。

「………日本の作家には決して問題にされないであろうこうした『贋金つくり』から「アンチ・ロマン」までの……………………。」

1960年代の日本でのジイドはあまり人気がなかったのでしょうか。私なりの深読みをすれば。遠藤周作は人気のない時代のジイドにも、耽読していた。そんなふうにも受け取れるのですが。
1951年2月19日。アンドレ・ジイド死去。八十一歳でありました。この時、遠藤周作はどこにいたのか。

「昨夜アンドレ・ジイドが死んだ。ぼくはLに頼んで、デュ・ボスのジイドとの対談の一頁をゆっくりよんでもらった。」

その頃フランス留学中だった遠藤周作は『日記』に、そのように書いています。

「………私は今日まで、ダブダブの洋服を少しでも自分のものにしようと思って書いてきた。」

遠藤周作は、昭和四十二年の随筆、『合わない洋服』の中に、結論として、そのように書いています。
『合わない洋服』。遠藤周作はここでは「小説」を「洋服」に喩えているわけです。でも、もう一度それをひっくり返して、「洋服」だと考えても、同じことではないでしょうか。所詮、「合わない洋服」なのです。合わないと分かっている洋服をいかに合わせるかの技術が着こなしなのですから。

「二十分ばかりして、ヴァンサンは薄緑の絹のジェラバ着てあらわれた。」

アンドレ・ジイドが1925年に発表した『贋金つくり』に、そのような一節が出てきます。ここでの「ヴァンサン」は、作家と設定されています。ジイドの分身とも言えるでしょう。
この文章のすぐ後に。

「彼女は、東洋風の手筺の中から、幅広の、紫紺色のスカーフを二本出した。そして濃いほうの一本を帯に締めさせ、もう一本をターバン のように頭に巻かせた。」

これは「リリアン」という名の女が。
「ジェラバ」 dj ell ab a は、中東地域の民族衣裳のこと。ワンピース型の上着。これまた「合わない洋服」のひとつでしょう。が、「合わせる」方法はあるのです。それを、ジイドの『贋金つくり』は教えているわけですね。
どなたか現代風のジェラバを仕立てて頂けませんでしょうか。

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