シェイクスピアとジャーキン

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シェイクスピアは、かのウイリアム・シェイクスピアのことですよね。
イギリスは観光の国でもありますが。その内の何割かは、シェイクスピアに関連しているのではないでしょうか。
「偉大なるシェイクスピア」だけでは足りない感じさえしてくるほどです。
シェイクスピアは優れた劇作家でありました。詩人でもありました。さらには作家でも。若いときには役者もこなしたという。
1590年頃の『ヘンリー六世』をてはじめに、1613年頃の『ヘンリー八世』に至るまで、四十を超える戯曲を完成させています。シェイクスピア劇の質の高さを思えば、とても人間技とは思えないほどです。
ここから昔から「シェイクスピア別人説」があったのです。シェイクスピアの名前で外の誰かが書いたのではないか。
そうは言ってもシェイクスピア並の知識教養がないといけないわけで。そこの当てはまるのが、フランシス・ベーコンだったのですね。長い間、「ベーコン=シェイクスピア説」は根t強くありました。でも、フランシス・ベーコンがなぜ「シェイクスピア」名義で書かなければならなかったのか。ここに大きな疑問が残るわけですが。
結論だけを申しますと、シェイクスピアは自分の作品を自分でお書きになったのであります。
それというのも晩年のシェイクスピアは書痙にかかっているから。「書痙」とは、手が震えること。多作の作家には時折あることです。まあ、平たく申しますと、手で書きすぎ。
1616年のシェイクスピアの署名を見ますと、文字が揺れています。1610年代のシェイクスピアが書痙だったのは、まず間違いないでしょう。
シェイクスピアの書痙。ここだけから考えても、シェイクスピアの戯曲は、おそらくシェイクスピア自身の筆になるものです。
シェイクスピアの書痙と関係があるのか、ないのか。
1616年2月10日。シェイクスピアの次女、ジュディスがトオマス・クイニーと結婚。この結婚式に出た五十二歳のシェイクスピアは、手袋を脱いだ時、金の紋章指環をなくしています。
余談ではありますが、新郎のトオマスはワイン商だったという。
1810年になって。「トゥリニティ教会」を掃除していた係が、古い金の指環を発見。
ここに紋章の「W・S」が刻印されていたことから、本物のシェイクスピアの指環だと、断定されたそうですね。
シェイクスピアが出てくるミステリに『白薔薇と鎖』があります。1991年にイギリスの作家、ポール・ドハテイが発表した物語。ただし時代背景は、1480年代に置かれているのですが。

「「足音を忍ばせていつの間にか」などとシェイクスピア殿あたりが言いそうじゃが……………………。」

また、『白薔薇と鎖』には、こんな文章も出てきます。

「………粗綿布の短上着に小さな鈴をどっさり縫いつけとる。」

「粗綿布」には、「モールスキン」の、「短上着」には、「ジャーキン」のルビ
が添えられています。
ジャーキン j erk in は主に十五世紀の衣裳。多く、革で仕立てられた、身体にぴったりして、着丈の短い服。もともとは鎧下であったかと思われます。袖はなく、前身で紐で縛る形式も多くあったらしい。
どなたか現代版のジャーキンを仕立てて頂けませんでしょうか。

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