トオマスとトージ

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トオマスは、人の名前にもありますよね。時と場合によっては、「トム」と呼ばれることもあるのでしょうか。
トオマスで、ドイツの文豪というなら、トオマス・マンがいます。長篇の『魔の山』、あるいは『ブテンブローク家の人々』をはじめ、多くの傑作を遺しています。
トオマス・マンの日本語翻訳者にもいくつかのお方がいらっしゃることでしょう。たとえば、高橋義孝。高橋義孝と書いて、「たかはし よしたか」と訓みます。が、高橋先生に尊敬篤き人は、「たかはし ぎこう」などとも、呼んだりしたそうです。
高橋義孝は大正二年、東京神田にお生まれになっています。が、この高橋義孝、なみなみならぬ洒落者でありました。格調の高い洒落者というべきお方だったでしょう。

トオマス・マンの愛読者だった人物に、日本画家の、東山魁夷がいます。

「………まず最初にリューベックを訪れたのは、私の中に、トーマス・マンへの傾倒が、いまだに深くものがあることを物語っている。」

東山魁夷著『トーマス・マン偶感』に、そのような一節があります。1970年に東山魁夷はヨオロッパの旅に出るのですが、やはりトオマス・マンの生まれ故郷である、リューベックに立ち寄っているのです。

ところでトオマス・マンはいつ小説の原稿を書いたのか。朝。午前中。
トオマス・マンが尊敬するゲエテもまた、午前中の執筆を好んだ。そんなこともあって、マンも朝に原稿を書くのが、お好きだったのでしょう。
では、どうやって、原稿を書いたのか。原稿用紙に万年筆で。タイプライターなどは用いなかったらしい。
そして構想の前に、分量。短篇なのか、長篇なのか。最初から短篇と決められたいたものに、『ヴェニスに死す』があります。1971年には、『ベニスに死す』として映画化も。たぶん、ご存じことでしょう。

トオマス・マンは実際に、1911年にヴェニスに旅しています。場所は、リド島。5月26日から6月2日まで。

「………初老の芸術家の少年の愛を扱う……………。」

トオマス・マンは、1911年7月18日付の、友人に宛てて、そのような手紙を書いています。ここから想像するに、テエマはヴェニスに着いてから。一部の原稿はすでにヴェニスで書き始められているようです。

「………イギリス風の水兵服は、その紐やネクタイや刺繍などで、この少年のなおやかな姿にどことなく豊かで豪奢な趣を添えている。」

トオマス・マンは美少年の服装をそのように、描いています。日本語訳はもちろん、高橋義孝。
1971年の映画『ベニスに死す』で衣装を担当したのが、ピエロ・トージ。ピエロ・トージはまずはじめ、1911年頃の生地などを蒐めたと、伝えられています。
ピエロ・トージは、1927年、イタリアのフィレンツェに於いて、誕生。凝りに凝る性格では、ルキノ・ヴィスコンティとの共通点があったようですね。
『ベニスに死す』は記念すべき映画です。また、衣裳デザイナーとしての「ピエロ・トージ」の名前も忘れられないでしょう。

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