ベルモットとベルボーイ・ジャケット

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ベルモットはリキュールのひとつですよね。少し乱暴に申しますと、「にがよもぎを漬け込んだ白ワイン」でしょうか。
たとえば、「チンザノ」。チンザノは代表的なイタリアの甘口ベルモットであります。もともとは健胃のための薬酒だったのでしょう。
日本での「ベルモット」は、明治のはじめから知られてはいたようです。明治初期に、川上音二郎という役者がいて、この人が『オッペケペー節』というのを流行らせたんだそうです。この歌詞の中に。

🎶 日本酒なんぞは飲まれない。ビールに。ブランデー。ベルモット。腹にもなれない洋食を。やたらに食ふのもまけおしみ……………。

そんな一節が出てきます。明治のハイカラぶりを皮肉って、人気になったらしい。川上音二郎が実際にベルモットを飲んだがどうかはさておき、歌詞に「ベルモット」が出てくるのは、間違いありません。

「ベルモツトを飲む。これも十年ぶり位なるべし。」

正岡子規が、明治三十二年に書いた随筆、『ゐざり車』に、そのような文章が出てきます。
子規はどこで、ベルモットを飲んだのか。高濱虚子の自宅で。明治三十二年頃、高濱虚子の家は上野にあって、この日、子規は虚子を訪ねているのですね。8月23日に。
子規が虚子の家に行くと、不在。散歩中。それで子規は虚子が散歩から戻ってくるのを、待つ。
やがて、虚子が帰って来て。奥さんの「いと」が、「氷でも………」というのを抑えて、アイスクリイムを子規にお出ししています。子規はアイスクリイムを二杯ぺろりと。
そのアイスクリイムのあとに、ベルモットが。その傍らに、長女の「真砂子」がいて。「それが欲しい」といって、少し飲んだ。

「………又コツプを父の顔につきつけてねだる。吾も子供一人ほしく思ふ。」

子規は『ゐざり車』の中に、そのようにも書いています。子規は真砂子のことを、「マー坊」と呼んでいたらしい。
それはともかく、明治三十二年に子規は「十年ぶり位」と書いてわけですから。少なくとも明治二十二年頃に、ベルモットをお飲みになったことがおありなんでしょう。
いや、それよりも。明治三十二年は、虚子が、二十五歳。その虚子が自宅にベルモットを用意してあったのは、ハイカラというべきでしょう。

「………頸の長いベルモットの瓶を、手にしたグラスの縁へ傾けながら、くるりと頭だけ振向けた。」

龍担寺雄が、昭和三年に書いた小説『アパアトの女たちと僕』にも、ベルモットが出てきます。龍担寺雄も、おそらくベルモットを嗜んだ口でしょう。

ベルモットが出てくるミステリに、『ピカデリーの殺人』があります。1930年に、英国の作家、アントニイ・バークリーが発表した物語。

「………わけ知り顔でベルモットのカクテルをちびちびやっているパブリック・スクールの生徒二人が……………。

これは当時のロンドンの、「ピカデリー・パレス」でのラウンジでの光景として。
この『ピカデリーの殺人』を読んでおりますと。

「ボタンだらけの服を着た小柄な少年がドアのところまで二人を案内した。」

これは、「オルドリッジ・ホテル」での様子。むかしはほんとうに「少年」がベルボーイとして働いていたことがあったようですね。
「ボタンだらけの服」。たぶん、「ベルボーイ・ジャケット」のことかと思われます。今も正式なホテルでは、職種によっては、ベルボーイ・ジャケットが採用されることも。客の側からすれば、誰に何を頼むかが、分かりやすい利点もあるでしょう。
どなたか大人でも着られる、現代版のベルボーイ・ジャケットを仕立てて頂けませんでしょうか。

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