ボアは、森のことですよね。bois と書いて、「ボア」と訓みます。
フランスでボアとくれば、まず、ブローニュの森を想い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
十九世紀のフランスで。男同士が、「ボアに行こう」と言ったなら、決闘を意味したという。それくらいに広くて、静かな所だったのでしょう。
明治十八年に、ボア・ド・ブローニュに行った日本人に、黒田清輝がいます。そうです、あの明治の西洋画家、黒田清輝。その時の様子は、『黒田清輝日記』に詳しく出ています。
『黒田清輝日記』は日記でもあるのですが、実際はお父さん、お母さんに宛てた手紙から、構成されているものです。
時によってはお父さんとお母さんに、ほぼ同じ内容の話だったりもします。が、お父さんに対しては、すべて候文。お母さんに対してはすべて平仮名で書いているのです。
「………のちに三人はぼわどぶろうにゆといふいつもいくこうゑんちにゆきましてこのこうゑんちのなかのいけでふねにのりふねこぎをあすびました………」
明治十八年五月二十九日付けの母宛ての手紙の一節に、そのように書いています。黒田清輝は、「こうゑんち」と書いていますが、おそらく公園地のことかと思われます。
黒田清輝はこの後、ブローニュの森の「中の島」にあがって、サンドイッチなどを食べたらしい。やはり『日記』は書いておくものです。今となっては貴重な資料でしょう。
巴里で、日記でといえば、『ゴンクール日記があります。
「きのう、シャンパルティエの家に日本人の面々が自ら料理したご馳走を持ってきた。魚の小さいパテのようなもの………」
1878年11月6日の『ゴンクール日記』に、そのような一節が出てきます。ゴンクール兄弟は巴里で、西園寺公望と交際があったらしい。
「魚の小さいパイ」はもしかすれば、握り寿司だったのかも知れませんが。
当時のゴンクール兄弟の写真を眺めていますと。たいてい全体に縁取りのあるフロックなどを着ています。今はモーニング・コートでもトリミングが少ない。
ゴンクール兄弟に限ったわけではありませんが、百年ほど前のフロックはまず例外なく、縁取りをしたものです。
縁取り。フランスなら、「ボルディール」bordure でしょうか。。おそらく当時は縫い目が見えるのは、はしたないことだったのでしょう。
どなたかボルディールのあるスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。