書道と純白

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書道は、書のことですよね。筆に墨をつけての書の藝術であります。
硯と墨。それに和紙と筆があれば、書は書けますが。そうそう、和紙の下に敷く毛氈も必要ですね。毛氈がフェルトであるのは、言うまでもないでしょう。
硯にほんの少し水を落して、墨を擦る。この間に書家は精神統一をしているんだそうです。

空海。嵯峨天皇。橘逸勢。この三人のお方を、「三筆」と呼ぶんだそうですが。卓越した書家のことであります。
俗に、「真行草」と言いますね。楷書、行書、草書のことです。空海はどの書体で書いても並外れた才能を発揮したと伝えられています。
ある時、空海は、嵯峨天皇に命じられて、ある寺の額を書いたことあるんだとか。その額を掲げた後で、文字に間違いのあることに気づいて。「應」の文字に、点がひとつ足りていなくて。
空海は額の下から筆を投げて、点を打ったという。これを観ていた嵯峨天皇は、「さすがに、空海」とお褒めになったそうですね。
「弘法も筆のあやまり」は、ここから来ているのでしょうか。

だいたいにおいて偉いお坊さんは達筆だということになっています。たとえば、日蓮。日蓮は、「草日蓮」の名前があったそうです。書、ことに草書を書くのが巧みにだったので。
日蓮は1222年2月16日に、今の千葉、鴨川に生まれています。
この日蓮が生まれた日に、鯛が岸に飛び跳ねて、その場が花園になった。そんな伝説があります。それで、地元の漁師はその場所では鯛を獲ることがなかった。千葉、鴨川、鯛の浦に伝わる話です。それで、地元の漁師は鯛を日蓮の化身と考えていたのでしょう。
千葉、鴨川、鯛の浦。ここは今も鯛の聖域になっています。鯛の浦での鯛漁はいっさい禁止されているので。
鯛の浦に舟を出して、舟べりを叩くと、鯛が寄ってくるほどです。

この鯛の浦の話が出てくる小説に、『こゝろ』があります。大正三年に、夏目漱石が発表した物語。

「二人は小湊という所で、鯛の浦を見物しました。」

これは物語の主人公「私」と「K」とのふたりことです。
また、『こゝろ』には、こんな会話も出てきます。

「カラやカフスと同じことさ。汚れたものを用いる位なら、一層始から色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくちゃ」

これは「先生」が私に対しての説明として。先生の家に私が食事に行くと、いつも純白のテーブルクロスだったので。
カラやカフスは、今のシャツのことでしょう。
いつも純白で着たくなるようなシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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