カイロは、エジプトの都ですよね。そしてまた、考古学の都でもあります。
カイロCairo は、英語式の呼び方。アラビア語では「アル・カーヒラ」の名前があるんだとか。
昭和十一年にカイロを旅した日本人に、高濱虚子がいます。高濱虚子には、『カイロ行き、ピラミッドに登る』があるのは、ご存じの通り。
「私達は一寸車をとめて、この夕陽を見ながら船で拵えて呉れた折の中の結飯を取り出して手掴みで食い、その側に入れてあった塩鮭の一片をも食ってしまい、それから壜に入れてあった茶をがぶがぶと口飲みした。」
これは夕陽が砂漠に沈むのを眺める場面でのこと。この時、虚子は当然のように、一句詠んでいます。
カイロ行き 砂漠に沈む 日を見たり
もちろん、虚子のことですから、外にも俳句を詠んでいるのですが。
アラビアの 朝日を負ひて シナイ山
江戸時代にカイロを訪れた日本人に、福澤諭吉がいます。福澤諭吉は文久二年(1862年)に書いた『西航記』に、その時の話が出ています。
「カイロといふ城下は古き土地にして名所旧跡多し、マホメット宗の寺あり。洪大な溝なり。又カイロより三里計の処に、ピラミッドと、」
そんな文章も出てきます。
福澤諭吉には、『西洋旅案内』の著書もあって。慶應三年の十月に発表されています。この中に。
「食事は朝昼夕三度、朝の食事をブレッキフアスといひ、昼をロンチンといひ、夕をヂンネルといふ。朝は茶をのみ、食事の品も十色計、昼も同じく葡萄酒などのみ、格別の馳走なし。夕の食事は三度の内一番の馳走にて、色々の品三、四十種も取揃へ、酒も沢山用ひ、ゆるりと飲食す。」
そんなふうに書いてあります。
カイロが出てくる小説に、『三人の詐欺師』があります。1885年に、英国の作家、アーサー・マッケンが発表した物語。アーサー・マッケンはディケンズとも友人だった人物。
「これはきみ、バグダットやカイロの町の景観なんかより、現実において数等まさった、すばらしい眺めだぜ。」
これは「ダイスン」という男の科白として。また、『三人の詐欺f』には、こんな描写も出てきます。
「正直それからというもの、わたしは隠元豆みたいなカフスボタンや、犬の鎖を型どったような銀鎖や、首にかけるブローチなんか見るたびに、いつも気が重くなって困りますよ。」
これもまた、「ダイスン」の言葉として。あまりに見事な宝石を見たので。
十九世紀のカフ・リンクスは、上下一対のデザインが基本になっていたものです。今のようなクリップ式のカフ・リンクスは存在していませんでしたから。
どなたか十九世紀ふうのカフ・リンクスを作って頂けませんでしょうか。