スペンサー(spencer)

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古服美

スペンサーは着丈のごく短い古典服である。

スペンサーは十八世紀末から、十九世紀なか頃まで着用されたが、今ではほとんど使われることがない。

スペンサーの着丈が短いのは、上着のテイル( 尻尾 ) が切り落とされたスタイルであるからだ。昔、フロック・コートにはウエイスト・シーム (腰縫目) が水平に入っていた。この腰縫目から下をテイルとも「スカート」とも呼んだものである。そのスカート ( 裳裾 ) 部分が省略されているのだから、着丈が短いのも当然であろう。

スペンサーは十八世紀の衣裳であるからナポレオン・カラーに似た凝った襟型であることが多い。ダブル前が基本であるが、シングル前がなかったわけではない。そしてくどいようではあるが、テイル(裳裾 ) のないデザインなのだ。

アメリカに生まれ、アメリカに育ったスタイルに、「メス・ジャケット」 mess jacket がある。その誕生は、十九世紀末のこと。イヴニング・コートのテイルを切り落として、メス・ジャケットとなったものである。今では盛夏の夜の略装として使われることは、言うまでもない。

見方を変えるなら、あのメス・ジャケットも、スペンサーがあったからこそ生まれたのだ、とも言えるだろう。フロック・コートの裾を切り落とすか、イヴニング・コートの裾を切り落とすかの違いであるのだから。

ただ、メス・ジャケットは今も現役であるが、スペンサーは過去の衣裳とされるところが、大きな違いでもあるのだが。

そしてもうひとつの違いは、メス・ジャケットが夜の服であるのに対して、スペンサーは昼の服であることだろうか。今、昼間の盛装にスペンサーは最適だと思うだが。

スペンサーは1790年の英国で生まれたものである。この新しい衣裳を考案したのは、ジョージ・スペンサー ( 1758~1834年 ) 。ジョージ・スペンサーは、第二代スペンサー伯爵であった人物。

スペンサー伯爵は彼の父である、ジョン・スペンサー ( 1734~1783年 ) にはじまっている。このジョン・スペンサーの末裔が、第八第スペンサー伯爵。このエドワード・スペンサー伯爵の第三女が、ダイアナ・スペンサー。もちろん、英国皇太子妃となったダイアナである。

ダイアナとスペンサーとは、まったく無関係でもないわけだ。

さて、第二代スペンサー伯爵に話を戻そう。1790年のある日、ジョージ・スペンサーは暖炉を背に本を読んでいた。と、なにやら匂いがする。よく見るとフロックの裾が暖炉の火で焦げている。ふつうならこれで第1巻の終わりである。

しかしスペンサー伯爵はこのフロックを捨てはしなかった。ウエイスト・シームを解いて、テイルを外せば着られるではないか、と。スペンサーはそれを実行した。実行したばかりか、その新しい衣裳を身に着けて、外出もした。

これが評判になって、たちまち流行になったという。アール・オブ・スペンサーは後に海軍大臣にもなった家柄のよろしい政治家でもあったから、皆がその真似をするようになったのであろう。

スペンサーは軽い上着である。テイルがないので、椅子に腰掛けても、裾が皺にならない。なによも、スタイルが斬新である。

1793年に、ジェイムズ・ギルレイ ( 1756~1815年 ) が描いた「パウダーよさらば」と題されたカリカチュア。ここにはシングル前のスペンサーが描かれている。襟は大きく外に返り、袖口はターンバック・カフになっている。

この軽快で、斬新なスペンサーは男性ばかりではなく、女性の間でも流行になる。女性たちはさらに着丈の短いスペンサーを着ることもあった。それは時に、「スペンサレット」 spenceret の名前で呼ばれたりもした。

「スペンサーとは、目下、大流行中の、軽い上着のことである。」

1795年『スポーティング・マガジン』の記事の一節である。十八世紀末にスペンサーが男女ともに人気を得ていたのは、間違いない事実なのだ。

「その完璧なる、老齢の紳士は、黒のスペンサーに、スパッツを着け、つば広の帽子をかぶっていた。」

チャールズ・ディケンズ著『荒涼館』 ( 1853年刊 ) の一文。しかしこのスペンサーもやがては姿を消すのであるが。

ダイアナ・スペンサーを「美しい」と形容するのは簡単である。しかしそれだけでは足りない。いっそ「貴てなる」 ( あてなる ) の古語を使いたいほどだ。

もし古語には古語の力があるのなら、「古服」にもいつか魅力があらわれるに違いない。

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