メモとメリンス

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メモは、忘備録のことですよね。自分の記憶を念入りにしておくために、紙になにかを書いておくこと。
正しくは、「メモランダム」なんでしょうか。たぶん、メモランダムを短くして、メモとも呼ばれるようになったのでしょう。
メモが出てくる小説に、『或る「小倉日記」伝』があります。昭和二十七年に、松本清張が発表した物語。

「耕作は二、三日通ってメモをとった。」

田上耕作が物語の主人公であるのは、いうまでもないでしょう。その田上耕作が、小倉の、ベルトランを訪問する場面として。
明治三十二年に、森 鷗外は九州の小倉へ。この時、森 鷗外はこのベルトランにフランス語を教えてもらっているのです。そこで、耕作は当時の森 鷗外がどんな様子だったのか、ベルトランに聞きにやって来たわけであります。物語の流れからいっても、耕作が「メモをとる」のは、当然だったでしょう。
松本清張の『或る「小倉日記」伝』は、第一作。松本清張はこの一作で、文壇に認められるわけです。
『或る「小倉日記」伝』を読んでおりますと、「K・M博士」というのが出てきます。これは実は、木下杢太郞のこと。実際に、松本清張は初期の原稿を木下杢太郞に、送って、見てもらっているとのことです。

「富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。」

昭和二十五年に、林芙美子が発表した『浮雲』の一節にも、「メモ」が出てきます。ゆき子が富岡に東京で会う場面。場所は、当時の渋谷。ガード下の中華料理店で、富岡は焼そばを頼むのですが。
林芙美子自身も、メモはつけていたようですね。まあ、作家ですから、メモをつけるのも、当たり前かも知れませんが。
1932年、林芙美子はひとりで、巴里に。林芙美子著『下駄で歩いた巴里』は、その時の紀行文なんですね。林芙美子はこの巴里でもメモを。それは主に、「オー・ボン・マルシェ」特製の「育児日記」をメモ帳として使ったらしい。

「絵葉書 40枚 巴里の街  6フラン 」

1931年11月23日のところには、そんなメモが書きつけてあります。

1931年5月29日に、谷崎潤一郎が書いた随筆に、『メモランダム』があるのは、ご存じでしょう。

「いろいろな人種の中で中國人の顔が一番人間らしい顔である。」

これは長谷川如是閑の言葉。谷崎潤一郎はある種のメモとして、そんなことを書いています。
谷崎潤一郎が大正十一年に書いた随筆に『縮緬とメリンス』があります。

「………お召や縮緬を着る代りにメリンスを着るがいい云ふのである。」

この随筆は、谷崎潤一郎の「メリンス礼讃」になっているのですが。
大正十一年は、林芙美子、十九歳。戀人を頼って、上京した年なんですね。
メリンスは、「モスリン」の訛り。絹モスリンもあれば、毛モスリンもあり、また、綿モスリンもあるわけです。
一説に、メソポタアの「モスール」に由来するとも。いずれにしても、薄く、張りがあり、美しい生地。
どなたか絹モスリンのシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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