ナポレオンとドリマン

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ナポレオンは、ナポレオン・ボナパルトのことですよね。一時期、フランス皇帝であったお方。
ナポレオン・ボナパルトは、1769年に生まれ、1821年に、五十一歳の生涯を終えています。そのためかどうか、没後二百年以上たった今なお「毒殺説」が絶えないほどです。
毒殺はさておき、ナポレオンに逸話が多いのは事実でしょう。「余の辞書に不可能な文字はない」だとか。
ナポレオン・ボナパルトは多くの肖像画をも遺しています。その中に、利き腕を上着の胸に差し込んでいるものが少なくありません。
これは軍人としての誇りだったとの説があります。いつでも利き腕が自由に使えるように温めておいたというのですが。
1815年、ナポレオンはワーテルローで、敗戦。この結果、イギリス軍によってセント・ヘレナ島に送られることに。

「私は捕虜ではない。私はイギリスの客分である。」

『ナポレオン自伝』の中で、そのように語っています。1815年8月4日。「ベレロフォン号」の甲板で。
ナポレオンはこの「ベレロフォン号」で、セント・ヘレナ島に向ったのですが。
到着したのは、1815年10月17日(火曜日)だったとのことです。

「午前六時、皇帝、内大臣、それに提督は、馬でロングウッドに赴かれた………」

ラス・カーズ著『セント=ヘレナ覚書』に、そのように出ています。ラス・カーズは、セント・ヘレナに同行
した従僕のひとり。
1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルトの死去。さて、それからどうなったのか。
ナポレオンの棺は船で、海に出て、やがてセエヌ川に入って、巴里に帰っています。その葬儀の様子を見物したのが、フランスの作家、ユゴー。ヴィクトル・ユゴー。

「馬のあとには、ベル・プール号の水兵五百人が続く。」

ヴィクトル・ユゴーは、『見聞録』の中に、そのように書いています。
「ベル・プール号」は、セント・ヘレナから巴里まで棺を運んだ船の名前です。
ユゴーはこれを手始めとして、延々と葬儀の偉大さを物語っています。
また、『見聞録』には、こんな描写も出てきます。

「ぴっちりした赤いズボン、金の縁飾りのある白い上着、空色のドルマン………」

これはトルコ式の軍服として。「ドルマン・スリーヴ」という時のドルマンです。
ただし、フランスなら「ドリマン」doliman となります。ドリマンは装飾的な短い上着。時に、右袖をあえて外して着ることもあったらしい。
どなたかドリマンふうの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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