カフェは、珈琲を飲むのに最適な場所ですよね。もちろん珈琲だけとは限りませんが。
コーヒー・ブレイクの言葉もあるように、まあ、一服する所でもあるのでしょう。
パリにはパリのカフェがあります。ウィーンにはウィーンのカフェがあります。
これはその国に特有のものであって、移すことができません。つまりカフェもまた、「文化」なんですね。
明治四十二年に巴里に旅したお方に、高村光太郎がいます。高村光太郎は詩人であり、彫刻家でもあった人物。
高村光太郎は巴里で当然のように、カフェの魅力にとりつかれたようです。それというのも高村光太郎は、『珈琲店より』の紀行文を書いているのですから。高村光太郎は「珈琲店」と書いて、「カフエ」のルビを添えています。
「ぱつと一段明るい珈琲店の前に来たら、渦の中へ巻き込まれる様にその姿がすつと消へた。気がついたら、僕も大きな珈琲店の門の大理石の卓の前に腰をかけていた。」
これは高村光太郎がお好きだった「カフェ・アメリカン」でのこと。
では、高村光太郎はこの時、カフェ・アメリカンで何を飲んだのか。シトロン。レモンを絞って、ジュース風にしたものを。
「鈴蘭もあるがこれは胸にさす為である。」
高村光太郎はカフェにやってくる花売娘のことにも触れています。春になるとミモザの花束を売りに来たり。
明治四十二年は西暦の1909年のことですから、ブートニエールの習慣も花盛りだったのでしょうね。
カフェでコニャックを飲む習慣のあったお方に、サルトルがいます。1940年代はじめのことですが。場所はサン・ジェルマン・デ・プレの「カフェ・ド・フロール」で。
サルトルは、昼のランチーをはさんでt、午前中に三時間、午後に三時間をカフェでの原稿執筆に充てたそうです。
最初は、「カフェ・ド・フロール」で。やがて来客が多くなったので、「カフェ・ドゥ・マゴ」に移ったんだとか。
サルトルは朝、カフェ・ド・フロールにやってくると、「コニャック!」。そう言って、二杯のコニャックを飲んだという。当時、カフェ・ド・フロールの主人だった、ポール・ブバルはそのように語っています。
昔、店の前に、フロールのニンフ像があったので、「カフェ・ド・フロール」の名前にしたんだそうです。
サルトル以前にも、カフェ・ド・フロールで原稿を書いた作家がいたらしい。たとえば、レミ・ド・グールモン。レミ・ド・グールモンはいつもリキュールを啜りながら、原稿用紙に向かったという。
『アマゾンへの手紙』はその大半をカフェ・ド・フロールで仕上げたと、伝えられています。
1912年には、詩人のアポリネールが、カフェ・ド・フロールで、アブサンを傾けながら、『レ・ソワレ・ド・パリ』の構想を練ったことも。
まだ、無名時代のジュリエット・グレコを、サルトルに紹介したのは、メルロ・ポンティ。
ジュリエット・グレコがよく顔を出したのが、クラブ「タブー」。クラブ「タブー」の開店は、1947年4月19日のこと。もともとは一階にカフェ「タブー」があって。その地下が空いていたので、クラブに。クラブにしたのは、ベルナール・リッカ。たちまちタブーは繁盛。ボリス・ヴィアンをはじめ、当時の巴里の先端的な若者が集まる名所に。
その頃の若者たちが好んだのが、「カナディエンヌ」canadⅰenne
。もともとはカナダの木こりの着る作業着だったもの。裏に毛皮を張った、格子柄のハーフ・コート。
言葉としては1928年頃から用いられているそうですが。
どなたか1940年代のカナディエンヌを再現して頂けませんでしょうか。