紳士のハンドバッグ
ブリーフケースは、ドキュメント・ケースのことである。ドキュメント・ケースは、書類鞄のことである。昔は、「折鞄」とも言った、ものだ。
ブリーフ brief も、ドキュメント document も、「書類」であることには変わりない。少し極端に表現すれば、ブリーフは「紙切れ」に近いかも知れない。一方のドキュメントは、「証拠書類」とでもいった印象だろうか。名前はさておき、自分の持物である以上、「紙切れ」も良し「証拠書類」も良し。何となれば林檎だって入れておける。その意味でもブリーフケースは便利な鞄である。
「今日、英国でのブリーフケースには、ブルーとレッドとがある。」
1910年度版『ブリタニカ百科事典』は、そんな風に説明している。これは弁護士が法廷で使う鞄を指してのこと。あるいは今日のブリーフケース直接の源は、弁護士用の鞄からはじまっているのかも知れない。
もっとも十九世紀末には、「ブリーフ・バッグ」に言い方があったとのことである。
つまり十九世紀になんらかの「書類鞄」があったのも当然であろう。一説に、「ポートマントー」や、「ポートフォリオ」が発展してブリーフケースになったとも言われている。
ポートマントー portmanteau は、もともとフランス語の、「服を持ち運ぶもの」の意味から来ている。今で言えば、スーツケースだろうか。
一方、ポートフォリオ porifolio は、イタリア語の「ポルタフォリ」 portafogli から出ている。もちろん、「紙を運ぶもの」の意味。
服を持ち運ぶものを小さくすれば、紙を運ぶものをもう少ししっかり作れば、ブリーフケースになる、ということなのか。
書類鞄と言って良いのかどうか、グラッドストン・バッグ。鞄上部の口が大きく左右に開くスタイル。イギリス人はグラッドストン・バッグのことを、「メタル・フレイム・ブリーフケース」と呼ぶことがある。もっとも古い英国人は、「ローズベリー・バッグ」と言ったりする。かつて、英国首相だった、アーチボルト・フィリップ・プリムローズこと、第五代ローズベリー卿が好んだ鞄だったことによる。
それはともかく、ローズベリー・バッグであるところの、グラッドストン・バッグ方式は、1826年のフランスで発明されたという。パリの、ゴディヨーという職人の考案であった、と。
1915年度版「ブルックス・ブラザーズ」のカタログ上には、少数ながら、ブリーフケースと、ドキュメント・ケースとが紹介されている。1915年頃のアメリカでは、ブリーフケースも、ドキュメント・ケースも共に使われた言葉なのであろう。
一方、1929年度版「ハロッズ」のカタログ上には、「ドキュメント・ケース」が三点登場している。カウハイド製が二点、ピッグスキン製が一点。そのどれを眺めても、今、我われが「ブリーフケース」と呼んでいるものに近い。ただし、「ブリーフケース」の名称は見当たらないのだ。
「コルビー・シンプキンズは、ブリーフケースを手に持って入って来た。」
これは1954年に、T・S・エリオットが発表した『ザ・コンフィデンシャル・クラーク』の一節。1950年代には、ごくふつうに「ブリーフケース」が使われていたのであろう。
「とくに愛好しているのは赤い鞄で、染料と皮のにおいの混じったものなのか、甘く物悲しいようなにおいがして、それが二年たっても消えない。」
1978年に、吉行淳之介が書いた随筆『鞄』の中の一文。われは勝手にボルドー色を想像しているのだが。もちろん、これがブリーフケースである保証はない。しかし永く使っているうちに、だんだんと愛着の湧いてくるブリーフケースをひとつ持っていたいのは、誰かしも同じ想いであろう。