龍泉寺とリヴァーシブル

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龍泉寺は、寺の名前ですよね。東京、台東区、下谷に龍泉寺はあります。
龍泉寺は寺の名前でもあり、また地名でもあります。明治の頃には、「下谷龍泉寺町」の呼び方だったという。今は、「竜泉一丁目」などと表記されるようですが。
龍泉寺で、小説でといえば、『たけくらべ』でしょうか。明治二十ハ年に、樋口一葉が発表した傑作。
『文學界』に発表されたのが、一月のことで。樋口一葉が実際に『たけくらべ』を書いたのは、明治二十七年のこと。一葉、二十二歳のことであります。

「黑繻子と染分絞りの晝夜帶胸だかに、足にはぬり木履こゝらあたりにも多くは見かけぬ高きをはきて……………………。」

もちろん、大黒屋「美登利」の様子を、一葉はそのように描いています。この「こゝらあたり」というのが、龍泉寺なのです。いうまでもなく『たけくらべ』の舞台は、龍泉寺におかれていますので。
ではなぜ、一葉は『たけくらべ』の背景を龍泉寺に選んだのか。その頃、一葉は龍泉寺に住んでいたからですね。
明治二十六年七月に、樋口一葉は龍泉寺に引越しをしています。母の瀧と、妹のくにとの女三人で。

「行々て龍泉寺町と呼ぶ處に、間口二間、奥行六間斗なる家あり。左隣りは酒屋なりければ、其處に行きて諸事を聞く。」

一葉は、明治二十六年七月十七日の『日記』に、そのように書いています。
家賃は、一円五十銭。敷金は、三円とも書いてありますが。
一葉は七月十七日の家を見て、七月二十日にこの家に移っているのです。そして一葉は
この龍泉寺町で駄菓子屋を開くのですが。
明治二十九年十一月二十三日、樋口一葉、永眠。二十四歳でありました。この少し前、
森 鷗外は友人の医者、青山胤通に一葉の診察を依頼しています。診察の結果は肺結核、絶望であったのですが。
森 鷗外は一葉葬儀に出席のつもり。しかし樋口家のほうで、身分違いなので、ご遠慮申し上げたという。
森 鷗外が明治四十四年に書きはじめた小説に、『雁』があります。この中に。

「紺縮の単物に、黒繻子と茶献上との腹合せの帯を締めて……………………。」

これは無縁坂近くに住むある女の様子。
「腹合せ」は、リヴァーシブルの帯。裏も表も使える帯、昼にも夜にも。それで、
「昼夜帯」とも呼ばれるわけです。

「………紫繻子に匹田染の唐縮緬の腹合帯をお太鼓にして……………………。」

永井荷風が、明治三十六年に発表した『夢の女』にも「腹合帯」が出てきます。もちろんリヴァーシブルの帯のことです。
どなたかサテンのリヴァーシブルのチョッキを仕立てて頂けませんでしょうか。

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