ピンカートンは、人の姓名ですよね。
P ink ert on と書いて、「ピンカートン」と訓むんだそうです。なんとなくスコットランドに多い名前のような印象があるのですが。
多くのピンカートンの中でもことに日本と馴染みがあるのが、『蝶々夫人』でしょうか。
舞台は、幕末の長崎。アメリカ海軍のピンカートンと日本人女性との戀物語。プッチーニのオペラ、『マダム・バタフライ』でもよく知られているところでしょう。
もともとは、1898年に、ジョン・ルーサー・ロングが発表した短篇。ロングはお姉さんから聞いた日本での話をもとに、小説に仕上げたものです。
その短篇を読んだプッチーニがオペラに仕上げて有名になったものであります。
🎶 ある晴れた日に
遥か彼方の水平線に……………………。
名場面の一節でありましょう。
小説は小説、事実は事実。ここに描かれたピンカートンこそ、グラバーであったと考えられて。あの長崎の「グラバー邸」の、トーマス・ブレイク・グラバー。
グラバーと、日本人女性、ツルとの間の男の子が、倉場富三郎なのです。倉場富三郎は、
明治三年、長崎に生まれています。「倉場」の姓がグラバーに由来しているのは、申すまでもないでしょう。
倉場富三郎の父、トーマス・グラバーもまた、スコットランド人でありました。
トーマス・グラバーは1838年6月6日。スコットランドのアバディーンに生まれています。
1819年8月25日。スコットランドのグラスゴーに生まれたのが、アラン・ピンカートン。
1842年にはアメリカのシカゴに移住しています。このアラン・ピンカートンこそ、
「ピンカートン探偵社」の創立者なのです。
1910年代から1920年代にかけて、「ピンカートン探偵社」で探偵として働いていたのが、ハメット。ダシール・ハメット。
1930年にハメットが発表した『マルタの鷹』は、ハードボイルドの傑作とされています。もし、ハメットがいなかったなら、レイモンド・チャンドラーは小説を書いていなかったかも知れません。
ハメットの『マルタの鷹』の中に。因みに日本語訳は、小鷹信光。
「ネクタイには五ドルの金細工のピン……………………。」
これは、サム・スペードのところにやって来たトム警部の着こなし。
もちろん、ネクタイ・ピンのことでしょう。
ネクタイ・ピンとタイ・バアは似て非なるものです。歴史的には、ネクタイ・ピンのほうが、古い。タイ・クリップなどのほうが新しい。
ごく単純に申しますと。スリーピース・スーツには、ネクタイ・ピンがふさわしい。トゥピース・スーツには、タイ・バアなどが向いています。
ピンは装飾7割、実用3割。タイ・クリップなどは、装飾3割、実用7割。そうも言えるでしょうか。
どなたか昔ふうの針先の長いピンを作って頂けませんでしょうか。