赤飯は、美味しいものですよね。たいていは目出度いときに食べることになっています。お祝いの席にふさわしい食事のひとつですね。
赤飯は、餅米で、小豆やささげをまぜて、炊く。米の種類にも、またその料理法にも多くの方法があるのは、いうまでもないでしょう。
でも、なぜ赤飯と祝いとが結びついたのか。『厨事類記』という古書に、宮中の食事の様子が出ています。それによりますと。鎌倉時代の宮中では。三月三日、五月五日、九月九日の節供には、赤飯が出される習わしだったという。
この時代にはまだ、一般庶民には赤飯で祝う風習はなかったようですね。江戸時代になってから、民間でも、赤飯が目出度いものとされるようになったものと思われます。
赤飯、すなわち祝いという考え方も、たいへんに古いんだとか。今の白米は、日本の古代にはなかった。あったのは、「赤米」。これは、「大唐米」とも呼ばれて、やや紅色がかっていた。
それが後に白米に変って、むかしを偲んで小豆などで、赤く色づけした。ここから今の赤飯の風習がはじまったとの、説もあります。
赤飯が出てくる小説に、『時は過ぎゆく』があります。大正五年に、田山花袋が発表した長篇。ただし、物語の背景は、明治三十年代に置かれているのですが。
「お米は赤飯を炊いて、神棚に灯を上げて、お膳には頭付などをつけた。」
これは、「實」という男の就職が決まったので、その祝いとして。
また、『時は過ぎゆく』には、こんな描写も出てきます。
「脊廣の男が卓の上で頻にペンを動かしてゐた。」
田山花袋は、大正五年に、「脊廣」と書いています。背広は、今でも使われる言葉ですが。そのはじまりは、明治三年のことかと思われます。古川正雄著『繪入り 智慧の環』に、「せびろ」と書いてあります。
古川正雄は、福澤諭吉の弟子で。おそらく福澤諭吉から「せびろ」のあることを識ったのでしょう。
では、福澤諭吉は誰からそれを聞いたのか。佐藤与次郎。佐藤与次郎は、幕末の横濱で修業したごく初期の洋服師のひとりだった人物。
フロックのようには、細腹がない服なので、型紙上、「背が広く」思えた。それで、「背広」。幕末、洋服師の仲間言葉だったのです。
一件落着したところで。赤飯なりと頂きましょうか。