傑作は、傑出した作品のことですよね。滅多にあるわけではありません。が、まったく無いわけでもないでしょう。
たとえば、ゴッホの『ひまわり』。まあ、傑作と言ってよいのではないでしょうか。ゴッホであろうとなかろうと、ひまわりには多くの花びらで縁取られています。
その花びらの一枚一枚が微妙に異なっているのです。ゴッホの描く絵の場合には。
ひとひらひとひらの表情を細かく、描き分けているのです。たったそれだけのことを眺めても、傑作の条件を備えているのではないでしょうか。
ところで、自分の息子に「傑作」と名づけてお方がいます。小栗風葉。小栗風葉は明治期に活躍した小説家。小栗風葉の本名は、加藤磯夫ですから、加藤傑作と命名したのでしょう。その名前の由来を訪ねられた小栗風葉は、こんなふうに答えたんだそうですね。
「自分の小説ではどうも傑作は作れそうにもないから、自分の作った息子に、傑作であることを期待したんだよ。」
この話は、薄田泣菫の『茶話』に出ています。そうそう、この『茶話』自体、傑作であります。また、『茶話』には尾形光琳のことも出ています。
尾形光琳ですから、場所は京都。京都の葵祭が背景になっています。京の富豪、三井八郎右衛門が思いたって、葵祭を観に行こうと。その時に声をかけたのが、尾形光琳。尾形光琳はとんでもない洒落者ですから、凝った羽織をお召しになって。金更紗の羽織。
三井八郎右衛門は、それが羨ましくてならない。内心、「あんな高価な羽織が似合うのは、私くらいのものだろう」と思ってもいた。そのうちに、にわか雨が。
三井八郎右衛門は駆けて駆けて、近くの農家の軒先で雨宿り。だいぶ遅れて、尾形光琳が。その時三井老は、光琳に言った。
「はよう、はよう。せっかくの羽織が濡れまっせ。」これに対する光琳のひと言。
「年寄りはせくとあぶない。」
高価高級の服を着た時。必要以上に構いすぎるのは、賢人のふるまいではないのかも知れませんね。