紬は、日本の絹織物のことですよね。
紡ぐからきて、「紬」の言葉が生まれたんだとか。
紬は繻子などとは異なって、平織。それもあえて光沢を抑えた織り方のものであります。というよりも絹糸自体が、やや粗いものなのです。
英語に、「ロウ・シルク」 r a w s i lk という言葉がありますが、ややそれに近いものであります。
昔の言い方に。
「紬は出ず入らず」。
というのがあったらしい。これは、よそ行きにも常着にもなるとの意味であったようです。
「商人の、よき絹きたるも見ぐるし。紬は、おのれにそなはりて、見よげなり。武士は綺羅を本として、つとむる身なれば。」
元禄元年に、井原西鶴が書いた『日本永代蔵』に、そのように出ています。
武士と商人は、着るものが違うんだ、と。商人が武士の真似をするのは、見っともない、と。まだしも「紬」が良いのでは、と。
紬を好んだ女に、樋口一葉がいます。
明治十九年。一葉、十四歳で、「萩の舎」に入っています。当時一流とされた歌塾。まわりの子弟は身分も高く、裕福な家柄。
一葉の詠む歌は優れていたのですが、一葉の着る着物は………。一葉はやがて代教にもなっていますから、優秀だったのでしょう。
樋口一葉が、明治二十八年に発表したのが、『たけくらべ』。一葉、二十三歳のとき。
「………さりとはおかしく罪のなき子なり、貧なれや阿波ちぢみの筒袖、おれは揃いが間に合わなんだと知らぬ友には言うぞかし……………………。」
これは「三五郎」の身なりについて。
ここでの「筒袖」は、簡単な仕立ての着物のこと。一般の着物のような袖になっていないので。筒のような袖なので、「筒袖」。
ところが。明治になって西洋服が入ってきた時。半ばたわむれに、それを「筒袖」と呼ぶこともあったのです。
「日曜の日、好天気、長羽織五六人、筒袖七八人、丁子湯に浴し、浅草に諷sh、詠じて帰る。」
明治九年に、服部撫松が発表した『東京新繁盛記』には、そのように出ています。
ここでの「筒袖」は、西洋服を指してのことではないでしょうか。
明治九年は、西暦の1876年のことで。どなたか1876年頃のスーツを再現して頂けませんでしょうか。