セレナーデは、音楽用語ですよね。
「セレナーデ」 s er en ad e はもともとドイツ語なんだそうですね。英語なら、
「セレネイド」でしょうか。
「セレナータ」とか、「セレナード」の言い方もあるらしい。
あえて日本語にしますと、「夜曲」になるのかも知れませんが。
「どうしてもピエロオが女の部屋の窓下に忍びよつて、何かセレナアドの一曲を弾かなくちやならない晩だ。」
明治四十三年に、永井荷風が発表した『冷笑』の一節に、そのように出ています。
荷風は、「セレナアド」と書いているのですが。
そもそもの「セレナーデ」が何であったかが、よく分かる文章にもなっています。また、
『冷笑』の中に。
「天鵞絨のスモーキングジャケットか何かを着て大きなパイプを啣へて………………」
そんな文章も出てきます。これは異国帰りの「小山 清」の自宅での着こなしなのですが。
「天鵞絨」には、「びろうど」のルビが振ってあります、
セレナーデがお好きだった作家に、野村胡堂が。野村胡堂があの『銭形平次』の作者であるのは、言うまでもないでしょう。
野村胡堂は時代劇を書く一方で、クラッシック音楽の研究家でもあったのです。野村胡堂の時代にクラッシック音楽を聴くのはすべて、レコード。蒐めたレコードの枚数、一万数千枚。そのレコードの重みで自宅の床が抜けた。そんな伝説があるほどです。
野村胡堂のもうひとつの名前が、「あらえびす」。あらえびすの名前では多くの、音楽評論を遺しています。
戦後、当時の皇太子殿下に、クラッシック音楽のご説明を申し上げたほどの人物だったのです。
「キミ、そのツルツルの雪駄だけは、よせよ。給仕が、たまにはいているけれど、人間が軽薄にみえて、よくないね」
野村胡堂著『胡堂百話』に、そのように出ています。
明治四十三年頃の話。野村胡堂は、月給二十円で、「報知新聞」に。その時の出勤にはもちろん、和服。和服ですから、雪踏。
「………そのころ最新流行の、セルロイドの雪駄を奮発した。」
ところが野村胡堂が「セルロイドの雪駄」を履いて出社すると。先輩の「安村省三」に、注意されて。以来、野村胡堂は一度も「セルロイドの雪駄だけは履かなかったという。
「雪踏ノ始ハ昔日尻切ト云物ヲ用千利休作意トシテ雪ノ此茶湯ノ時露地入ノ爲ニ……………………。」
天和四年の古書『堺鑑』には、そのように書いてあります。
雪を踏むのに優れた履物なので、「雪踏」なのでしょう。雪の日に茶室に入るには、さぞかし難儀。下駄だと歯に雪が詰まって。草履なら雪で濡れる。そこで、革の底に、畳表を張ったものと思われます。
利休以前にも、「尻切」という草履の一種があったらしい。この「尻切」を利休が改良して、「雪踏」が生まれたのではないでしょうか。
「………はやり衣装の仕出し、素足に雪踏の音たかく……………………。」
元禄元年に、井原西鶴が書いた『好色盛衰記』の一節にも、そのように出ています。
井原西鶴は、「雪踏」と表記しているのですが。
今も昔も雪踏には底に「金」を打ったもので、歩くと音が。それを、「雪踏ちゃらちゃら」
と形容したものであります。
「雪駄ばかりはチャラチャラと勇ましいけれど……………………。」
明治三十七年『都新聞』一月二十九日の記事にも、そのように書いてあります。小見出しは、「モルガント 十萬圓のお雪さん」となっているのですが。
つまり、富豪のモルガンに身ウケされたお雪の、新橋駅での様子。
結婚式を横濱で。それから列車で、新橋に。新橋からは馬車で、帝國ホテルに。その途中のお雪を描写しているわけですね。
雪踏であろうとなかろうと。野村胡堂の先輩「安村省三」のように。履物について。
「人間が軽薄にみえる」
と、注意してくれるのは、ありがたいことです。
どなたか軽薄には見えない靴を作って頂けませんでしょうか。