逍遥とショール

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逍遥は、散歩のことですよね。でも、散歩と逍遥は、少し違っているのかも知れませんが。
散策、漫歩というのに近いのでしょうか。心を広く開いて、漫ろ歩く。これが、逍遥なのでしょう。

「この男、はた、宮仕へおば、苦しき事にして、たゞ、逍遥をのみして………………」。

西暦の965年頃の古書『平中物語』にもそのように出ています。
「逍遥」の言葉もかなり昔から用いられているのでしょう。
逍遥、つまり、漫ろ歩くことが学問にとって大切ということもあるようですね。
「逍遥学派」。これを唱えたのが、アリストテレス。そのために、アリストテレス学派のことを、「逍遥学派」と呼ぶんだとか。
アリストテレスはアテネ郊外に、学園を開いて。これを神殿の名前に因んで、「リケイオン」Lyk e i on と称したらしい。
この「リケイオン」の周りは回廊になっていて。この回廊を「逍遥」しながら語り、考えたんだそうですね。
余談ではありますが。フランスでの高等教育を、「リセ」lycée というんだそうですが。あの「リセ」もまた、アリストテレスの「リケイオン」から出た言葉なんだそうですね。
えーと、逍遥の話でした。この「逍遥」をそのまま号にした文豪が、
坪内逍遥であります。本名は、坪内雄蔵。でも、やはり坪内逍遥のほうが文豪に似合っていますよね。
坪内雄蔵が「逍遥」にする時、アリストテレスの「逍遥学派」のことが頭をよぎっていたのでしょうか。
坪内逍遥は、明治九年、「東京開成学校」に。これは明治十年に」、
「東京大学」になっているのですが。
この「東京開成学校」に、ホートン先生がいて。
「『ハムレット』の王妃、ガートルートのキャラクターを説明せよ」も問いが出されて。その時の坪内雄蔵は「キャラクター」がよく分からなかった。で、あまり良い点が取れなかった。
坪内青年は、その翌日から図書館に通って、英語の勉強を。だからこそ、後に、「シェイクスピア演劇集」の全訳が可能になったのでしょうが。
晩年の坪内逍遥が愛したのが、熱海の別荘。その時代の熱海は、村というほどに静かで、「逍遥」に適した場所には事欠かなかったそうですね。
明治十九年に、坪内逍遥が発表した小説に、『内地雑居未来の夢』の中に。

「………男のシヨウルやうやくすたり…………」。

と、出てきます。坪内逍遥は、「シヨウル」と書いているのですが。
明治十一年の頃から、男女ともにショール流行して。明治十九年頃から次第に女専用と考えられるようになったらしい。
では、イギリスではどうだったのか。

「………厚く、たっぷりとしたグレイト・コートに、ぴかぴかの帽子をかぶり、とても長くショールを羽織った紳士が…………………」。

1859年に、サラ・ジョージ・オーガスタスが書いた『ガスライト・アンド・デイライト』の中に、そのように出てきます。
つまり、1850年代のイギリスでは、紳士もショールを愛用していたことが窺えるでしょう。
どなたか、紳士用のショールを作って頂けませんでしょうか。
名前は、「逍遥」で決まりです。

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