羅生門とランドセル

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羅生門は、名作ですよね。原作は、芥川龍之介。大正四年に発表されています。
『羅生門』は、今からざっと百年以上も前の短篇。
昭和二十五年には、黒澤 明監督が映画『羅生門』を完成させています。その映画『羅生門』から数えても、約七十年が過ぎているのですね。
もっとも『羅生門』の時代背景は、平安時代ですから、百年や二百年で驚いてはいけないのでしょうが。

「或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。」

芥川龍之介の『羅生門』は、そんなふうにはじまるんでしたね。
芥川の『羅生門』は、大正四年『帝國文學』十一月号に発表されています。芥川龍之介が、
二十三歳の時。
作者の署名はなぜか、「柳川隆之介」になっています。芥川龍之介が、「帝國大學」在学中のこと。
大正四年の『羅生門』は、ほとんど反響がなかったらしい。芥川はまだ無名で、しかも仮の名前でもあったのですから。
芥川龍之介は、『羅生門』の前にも、『帝國文學』に原稿を持ちこんでいます。が、採用には至りませんでした。二度目は、採用。そして三度目が、『羅生門』だったのです。

「この期間の自分は、東京帝國大學の怠惰なる學生であつた。」

大正六年に芥川龍之介が書いた随筆、『羅生門の後に』の中に、そのように書いています。
卒業論文は一週間で簡単に書いて、などと謙遜しているのですが。
芥川龍之介の「帝國大學」の卒業論文は、『ウイリアム・モリス』。つまり、芥川は一方で
『羅生門』を書きながら、もう一方で、『ウイリアム・モリス』を研究していたことになります。
芥川龍之介が世に出るきっかけとなったのは、『鼻』。『鼻』が夏目漱石に認められて、いきなり文壇に登場することになったのですね。
芥川が漱石をはじめて訪ねたのは、大正四年十二月。『羅生門』発表の直後ということになります。

「制服を着た大學生は膝の邉りの寒い爲に、始終ぶるぶる震へてゐた。それが當時のわたしだつた。」

芥川龍之介は、『漱石山房の冬』と題する随筆の中で、そのように書いています。
この時の芥川は、「帝國大學」の學生服を着ていたのですね。
夏目漱石は學生服姿の芥川の前で、どんな話をしたのか。
「自分はこれまでの人生の中で、何回、万歳をしたのか。一回目は………。二回目は……………。
三回目は……………。」
都合、三回の万歳をした。そんな話を漱石はしたという。

『羅生門』という題の小説は、実はもう一つあるのです。
巌谷小波が、明治二十八年に発表した『羅生門』。

「むかしむかし京の九條の羅生門と云ふ處に、毎晩恐ろしい鬼が出て……………………。」

そんなふうにはじまる『羅生門』なのですが。
『羅生門』は、古書『今昔物語集』に出てくる話なので、換骨奪胎があっても不思議ではないのですね。
巌谷小波が『羅生門』よりも前の明治二十五年に発表した物語に、『當世少年氣質』があります。この中に。

「………英麿は外套の頭巾を被り、革袋を後に背負つて、悠然とあるいて來るのを……………………。」

これは、學習院の生徒、清原英麿の下校時の様子。
巌谷小波は、「革袋」と書いて、「ランドセル」のルビを振っています。
今の学生のランドセルは、學習院からはじまったそうですから、史実の上からも正しいのでしょう。
では、ランドセルがどうして學習院からはじまったのか。
學習院の教育方針として。俥での送り迎えはよろしくない。生徒個々人が、徒歩で通学すべきである。どうもそんなことがあったらしい。
そこで勉強道具一式を入れておくための「背嚢」が必要になったのでしょう。
一説には。後の大正天皇が、學習院にお入りになる時。伊藤博文が通学鞄を御贈りした。それが今日の「ランドセル」であったとか。
ひと時代前のランドセルは基本的に手縫いで、手間隙かけた背嚢、脊鞄だったのです。
どなたか手縫いのランドセルを作って頂けませんでしょうか。

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