菖蒲湯は、五月五日、端午の節句ですよね。この日は、菖蒲湯につかり、菖蒲酒を飲むことになっています。
湯の中に菖蒲の葉を入れてこの中に身体を沈めると、邪気を払ってくれるんだそうです。
この菖蒲湯の歴史も古いらしく、少なくとも江戸期にはあったとのこと。
「笹屋縞の帷子、女の隠し道具をかけ捨てながら、菖蒲湯をかかるよしして」
井原西鶴が、天和二年に発表した『好色一代男』に、そのような一節が出てきます。
ここでの「笹屋縞」は少し説明が必要かも知れません。
当時、京都、室町にあった呉服屋「笹屋」のこと。この笹屋が売出した縞柄なので、「笹屋縞」。
また、「女の隠し道具」は、その時代の女性の下着だった「腰巻」のこと。菖蒲湯に入るわけですから、腰巻を取るのも当然のことでしょう。
それはともかく、天和二年は西暦の1682年。たぶんその時代にはすでに菖蒲湯の習慣があったものと思われます。
菖蒲湯が出てくる小説に、『東京の人』があります。
川端康成が、昭和二十九年に発表した長篇。
「敬子が檜戸をあけると、湯のなかで、弓子がしやうぶの葉をならしてゐた。」
そんな文章が出てきます。これは敬子もまた朝風呂に入ろうとして。すると先客に弓子が入っていた。そんな様子を描いているわけですね。
この家の風呂は特別に大きく作られている。そんな説明もあるのですが。川端家の風呂はどうだったのでしょうか。さあ。
川端康成は昭和十年の十二月に、鎌倉に越しています。その頃、友人の林 房雄がやはり鎌倉に住んでいて。たまたま隣の家が空いて。林
房雄が川端康成に、「ぜひとも越してくるように」。それで、林 房雄の隣に住むことになったんだそうですね。十二月五日のこと。
林 房雄は話相手が欲しかったのでしょうか。飲み友達が欲しかったのでしょうか。
近くには小林秀雄なども住んでいて、毎日が賑やかだったという。
結局、川端康成は1972年に世を去るまで鎌倉に住んだわけですから、人生は分からないものですね。
川端康成の『東京の人』を読んでおりますと。生地の話も出てきます。
「輸入品のウールのジヤアジ、モスリン風の生地などを、マダムはひろげてみせた。」
これは銀座の洋裁店「ジャスミン」で「朝子」が生地を選らんでいる場面。
川端康成は、「ジヤアジ」と書いているのですが。たぶん「ジャージー」jersey のことかと思われます。
もともとはイギリス海峡に浮かぶ島、ジャージー島にはじまっています。ジャージー島の漁師の着るフィッシャーマンズ・スェーターだったもの。それが後に「編地」の意味になったものです。
どなたかジャージーの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。